☂59 殴り合う若者たち | 世の中の色々なことについて思うこと・神吉雄吾のブログ

 僕はむかしから格闘技が大好きで、K-1もその隆盛を極めた時代に熱中して見たものだ。

 

 ただ、当時の僕にとって格闘技とは単なる娯楽でしかなかった。あの選手が好きだとか嫌いだとか、面白い試合だとかつまらない試合だとか。そんな程度。

 だけどある時を境にして、格闘技は僕にとって単なる娯楽ではなくなってしまった。

 

 2012年4月、当時のK-1チャンピオン含め十数名のトップファイターが東松島にやってきた。

 

「何か被災地の役に立てないでしょうか」

 

 突然そんな相談が僕のところへ来た時、どろどろの作業でもやれますか?と訊ねると、選手たちから「なんでもやります」と気持ちよい返事がきた。

 

 津波の被害のあった大曲小学校で、プール周りの塩害枯木の伐採作業を手伝ってもらえる事になった。

 

 小学校では11人の児童が津波で亡くなっている。

 

 選手たちは真剣なまなざしで、校長先生から震災の話を聞いた後、切った木や根をひたすら運ぶ作業を、体中どろどろになって頑張ってくれた。明るくて礼儀正しい、とてもすてきな若者たちだった。

 

 あの頃、TV放映がされず混迷期をさまよっていたK-1。だけどそんな厳しい時代でも、僕らには見えない場所で闘い続けていた選手たち。恥ずかしい事に僕は、テレビに出なくなった選手たちの事なんて、少しも考えたことはなかった。

 

 一人一人の選手と話して触れ合うと、当たり前だけどそれぞれの人生があり、家族や仲間がいて、その思いを背負って戦っていると知る。

 それは単なる殴り合いでもスポーツでもなく、選手たちにとっては人生をかけた真剣な戦いの舞台なのだ。

 

 2014年、K-1は地上波に復活した。選手たちから大会への招待をもらって、東京の会場へ応援に駆け付けた。

 

 一緒に汗した選手がリングで殴られるのはつらい。自分も殴られているようで痛みを感じる。選手が悔しくて泣くとき僕も悔しくて泣いた。

 

 敵の選手だってそうだ。彼らにも人生があり背負っているものがある。この舞台に立つ全ての選手が同じだと思うと、もう娯楽としては楽しめない。

 

 ただ、これまで以上に真剣に試合を見るようになった。

 

 拳をにぎりしめ、声を出して応援して、汗して涙してへとへとになる。