コラム執筆のお話があった時、担当の方からけっこうな自由度をいただいた。
「どんなジャンルでも構わないですよ」
何者でもない僕が書けることは、自分で経験して来たことだけだ。だから幼少の頃まで記憶をたどってさかのぼり、印象深い出来事を思い出しては、小さなことでも一つずつ書き出してゆく。
「そんなこともあったね」
当時の記憶を掘り起こして、文字にしてゆく作業は意外と楽しかった。まるで遅れて日記を書いているような感じだ。
乱雑なたんすの中を一旦取り出し、整理しながらしまい直してゆくように、昔の記憶が整って行くような気持ち良さがあった。
僕は古い写真を持っていない。児童養護施設を出る時に置いてきて、家を飛び出したときにも置いてきて手元に一枚もないから、むかしの記憶は頭の中にあるものだけ。
コラムを書いて思い出が整理され、3年続いたおかげでそれらは分厚い束になって、僕の過去のアルバムが出来た気がする。
今振り返ってみれば、自分の人生は恵まれているのだとつくづく思う。
「何も持っていない」と思って過ごした幼少期から、「こんなにも恵まれているのだ」と思える大人になった自分への、感覚の変化というものは不思議なくらいに大きい。
人さまに比べればグダグダで、良い所がない回り道の人生だったのに、こうして振り返って文章にしてみると、コラムとして読んでもらえるような、なかなか楽しい人生だったじゃないかと前向きに思えるようになった。
ある社会学者がこんなことを言っていた。
「大抵の人は成功なんかしない。グダグダな人生をいかに生きるかだ」
その言葉の意味が、今はよく分かる気がする。
誰しも、平凡な日常のくらしの中に目を凝らせば、ぽつんと光る出会いがあったり、誰かの優しさに触れることが出来たり、実は結構な彩りにあふれていたりするものだ。
特別なものが何も見当たらないような人生の中で、いかに小さな喜びを感じ取れるかが大事なのだなと思う。
「小さな喜びや、優しさ切なさを感じられる文章を書きたい」
と思っていた。悲しい話を書く時には悩んだりもした。
読者のみんなからもらった朝の3分ほどの時間が、良いものとなったのであればいいのだけれど。