みなさん、おはようございます。
今日で父が突然の旅立ちを迎えてから、丸1年が経ちました。
この1年、ふとした瞬間に「ああ、親父はまだ生きているべきだったな」と、どうしようもない寂しさを感じる日々でもありました。生前は互いに多くを語らずとも、静かに心が通じ合っていた親子の時間ですが、それも今となっては愛おしい人生の1ページです。
私の父は、叩き上げの自営業者でした。中学を卒業してすぐに単身東京へ飛び込み、職人としての厳しい修行を積んだと聞いています。相当な苦労があったはずですが、いろんな苦労や壁を乗り越えて自分の店を構え、母と結婚し、その数年後に私が生まれました。
子供の頃のアルバムを開くと、忙しい商売の合間を縫って、遊園地などへ連れて行ってくれた写真が残っています。特に父は、仕事仲間との男だらけの集まりによく私を連れて行ってくれたようで、富士山の裾野で小さく笑う私の写真が、今も何枚も手元にあります。
けれど、物心ついてからの父は、一言で言えば「怖い存在」でした。生活のすべてが商売を中心に回っており、夜、店が閉店するまでは食事もお預け。店が閉まった後、家族みんな揃って遅い夕食をとるのが、我が家の当たり前の日常でした。
そんな厳しい生活のなかで、月に一度だけ、父が外食に連れて行ってくれる日が何よりの楽しみでした。お気に入りの中華料理屋があり、そこで食べるチャーハンが幼い私の大好物だったのです。
今でも鮮烈に覚えているのは、ある日、私が手元を狂わせてチャーハンにドボドボとラー油をかけてしまった時のことです。子供の口にはあまりに辛く、泣きそうになりましたが、父は「自分でやったことだ」と無言の視線を向けました。自分の始末は自分でつける。職人の子としての洗礼のような気がして、私はラー油のかかっていない白い部分を、必死に探しながら食べたのを覚えています。
そして、父との思い出を語る上で、どうしても外せないのが「野球」です。
父の影響で野球が大好きになった私ですが、何しろ父は年中無休の自営業。滅多にキャッチボールの相手などしてもらえるはずもありません。当時の私の相棒は、自宅のブロック塀でした。いまはもう壊されてなくなってしまいましたが、あの頃の塀には、私が毎日一人で投げ込んだ白球の跡が、無数に刻み込まれていました。
それでもごく稀に、店が暇な時間に、父がふらりとグローブを持って相手をしてくれることがありました。飛び上がるほど嬉しかったのを覚えています。
しかし、そのキャッチボールは常に真剣勝負でした。私がコントロールを乱し、父の胸元のストライクゾーンから外れた球を投げた瞬間、「もう終わりだ」と即座に終了。一度など、たった一球目を外しただけで、父は怒ってそのまま黙ってお客さんのいる店へと帰ってしまったこともありました。「まともに投げられないなら、相手にしない」と言わんばかりに。当時はその理不尽さに涙が出ましたが、そこにも職人としての厳格なプロ意識が隠れていたのかもしれません。
小学生の時、地元の少年野球チームに入ったものの、なぜか短い期間で自然退会になってしまったことがありました。後になって知ったのですが、私が入団したことで、野球好きの父に「コーチをやってほしい」と依頼が来ていたそうなのです。店を空けられない父はその依頼を断るために、なんと私をしばらく練習に欠席させ、そのままやめさせていたという、なんとも不器用で型破りな理由でした。当時は呆れましたが、今となっては思わず苦笑してしまう、父らしいエピソードです。
しかし、中学に入り、父の強い希望で再び野球部に入部してからの景色は、少しずつ変わり始めました。周りは少年野球を勝ち抜いてきた猛者ばかりでしたが、私は低学年の頃から運よくベンチ入りメンバーに選んでもらうことができました。そして最高学年になる頃には、顧問の先生の推薦で主将に就任。「4番サード」が私の定位置になったのです。
あの、一球で怒って帰ってしまった父が、この時は心の底から、静かに喜んでくれました。
それからの父は、私が試合に出るか出ないかにかかわらず、野球好きの仲間の父親たちと車を連ねて、遠くの練習試合から緊迫した公式戦まで、ありとあらゆる球場へと応援に駆けつけてくれるようになったのです。その無言の皆勤賞は、高校に進学してからも続きました。
さすがに高校の敷地内で行われる練習試合には来ませんでしたが、公式戦となれば、どんなに仕事が忙しくてもスタンドには必ず父の姿がありました。ベンチを温めている日は、父の視線が痛いほど眩しく、「早く試合に出て親父に見せたい」という焦りと申し訳なさが入り混じった、複雑な青春の汗を流したものです。
高校の野球部に入学した当初、私は内野手を希望していたのですが、監督の指示ですぐに外野へ、そして数日後には「お前、ピッチャーをやれ」と告げられました。
その日の夜、家に帰って恐る恐る「親父、ピッチャーをやることになった」と報告した時の、あの父の顔が今でも忘れられません。まるで自分のことのように、顔全体のシワをくしゃくしゃにして、本当に嬉しそうに笑ってくれたのです。あの、ブロック塀にボールをぶつけていた少年が、ついにマウンドに立つ。一球外しただけで怒って帰ったあの日のマウンドの続きを、父は私の背中に見ていたのかもしれません。
そんな風に、私の前をいつも大きな背中で歩き、無言の威厳を示し続けていた父でしたが、晩年、二人きりで旅行に出かける機会がありました。
かつての面影からすれば、ずいぶんと体も小さくなり、弱くなっていた父。かつては私を富士山へ引っ張っていってくれたその手が、今度は私の肩や腕を頼るようになっていました。旅行の間、父は私に支えられながら、何度も、何度も、「本当にありがとうな」と、心からの感謝の言葉を私に伝えてくれました。
あの怖かった親父が、こんなにも優しい目で私を見つめ、ありがとうと言ってくれている。その小さくなった背中と、温かい言葉に触れたとき、私は「ああ、俺はこの親父のことが、本当に大好きなんだな」と、胸の奥が熱くなるのを覚えました。厳しかった日々も、すべてはこの瞬間のための、父なりの不器用な愛の育て方だったのだと確信できたからです。
あれから1年が経ち、父の大きな背中を追いかけることも、旅先でその体を支えることも、もうできなくなりました。
けれど、ハンドルを握る時、物事が思うようにいかず心が揺れる時、私の心のストライクゾーンには、今でもあの不器用な父が構えてくれているような気がします。
親父、そっちの居心地はどうですか。
こっちはもう少しだけ、そっちの胸元にいい球が投げられるようになるまで、泥臭く頑張ってみるよ。
みなさんにとって、大切な人との忘れられない記憶は、どんな景色の中にありますか?
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、今日も皆さんにとって良い一日になりますように。


