「好き」「嫌い」の先に「愛」があるというのは大誤解。

 

「好き」でいても、「嫌い」でいても、その不安定な感覚とはまったく関係がない「愛」。

 

私たちは「愛する」なんてことはできないのでした。

 

そうではなくて、私たちは「愛」そのもの。

 

「愛」そのものなので、”愛する”必要はないし、そもそも不可能なのです。

 

あの人のことを「好き」でも、「嫌い」でも、

 

その人から「好かれて」いても、「嫌われて」いても、

 

この仕事が「好き」でも、「嫌い」でも、

 

その場所が「好き」でも、「嫌い」でも、

 

そんな「個別」の趣向に、全く影響されてない。

 

「愛」の中にいて、その「愛」の中で、「個人」という夢の中で、「好き」とか「嫌い」とか、分離ごっこをやっているだけでした。

 

このことに気づくまでは、「好き」とか「嫌い」にこだわり、こだわる分だけ苦しみます。

 

家族を「好きになれない」と罪悪感を感じて苦しんだり、取り繕ったり。

 

自分のことを「好き」にならなきゃとか。

 

「自己肯定感」上げなきゃって頑張るとか。

 

そのための比較として他の誰かを「嫌い」、「否定」したり。

 

「好きなことだけする!」って決めちゃうと、「好きなこと」が見つからないことで焦ったり、責めたり、落ち込んだり。

 

こうして、「好き」「嫌い」にこだわると、どんどん不自由になる。

 

冷静になると、過去の「好き」「嫌い」なんかは、いつの間にか気分が変わってたりして、なんともあやふやなものだったなぁと気づくのです・・。

 

 

・・・

 

「どうしても好きになれない」

「あの人から嫌われている」

「好き嫌いが強い」

「これじゃないとダメ」

「あれだけが好き」

 

以前の私は、自分の「好き嫌い」の主張やこだわりを責めていました。

 

また、人から「好かれている」「嫌われている」を気にしていました。

 

だけど、「好き」「嫌い」は「特別な個人」を強化する自我の働きだったって気づきました。

 

そしたら、「好き」でも「嫌い」でもどっちでも良くなって気にならなくなり、「わからなさ」に包まれました。


意味づけから自由になっていきました。

 

「好き」であっても「嫌い」であっても、「愛」は全く揺らがない。

 

「好き」でも「嫌い」でも、「愛」はそのままの全体そのもの。

 

私たちそのもの。

 

これからも、「好き」「嫌い」は出てくるでしょうが、それは大海のとして、ただ出てきては消える。

 

感情感覚として感じ、見過ごされていきます。

 

そして「愛」そのものの中でくつろいでいたことに気づきます。

 

感謝し、祝福の中にいることに気づき続けます・・・。

 

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~「奇跡講座」「非二元」「禅」の気づきとわかち合い~

 

違和感だらけの苦しい暗中模索の人生の中で、さまざまな心理や真理の学びを重ね、

「個人」として生きることのパラドックスに氣づきました。

 

「個人」の夢から覚めた先に、ゆるぎない喜びがありました。

そして、究極の「生きがい」が開かれましたハート

 

 

●「奇跡講座」「非二元」を経て・・・➡●

 

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