私たちは「純粋」。

穢れていません。

無垢という存在です。

 

真実をかき消してきた思考、「過去」の記憶。

 

「分離」の信念を通して見てきた数々のストーリー。

 

思考が作る「時間の物語」。

 

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私の、過去の物語。

 

親や周りの大人たちから責められ、怒られ、罪を信じている。

 

犠牲的に生きてるように見える親に対して罪悪感を感じる。

 

友達や恋人からそっけなくされて無価値だと思う。

 

存在意義が見つけられなくて絶望。

 

社会は冷たく不平等で怖い所に見える。

 

自分が罪深いからだと信じていた。

 

「分離」の物語。

 

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私の父はとても”お人よし”だった。

 

そのせいで、人に利用されて苦労している姿を見てきた。

 

気が弱くて、いつも我慢しているよなぁと見えていた。

 

優しかったけど頼りなかったし、頼れなかった。

 

私は”お人よし”であることを、「純粋」さ、だと間違って解釈していた。

 

だから、「純粋」なことは損なこと、報われないこと、だと思い込んでいた。

 

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それから、思考、自我の構造に気づいた今は、

 

お人よし”とは、自我意識であり、かけ引きだったのだと気づいた。

 

かけ引きゆえの防衛反応、共依存、犠牲心。

 

分離意識なのだと気づいた。

 

「純粋」「無防備」「無垢」とは真逆だったと。

 

本当に大きな勘違い。

 

私の、自我による分離のストーリーを、父を通して見ていただけなのだ。

 

その気づきを、父を通して見るだけだった。

 

実際、父自体は、「純粋」だったのだ。

 

父は傷ついてなどいなかった。

 

傷ついているのは自我という分離意識。

 

父も私も純粋な存在でしかない。


自我の構造が見抜かれていく。

 

私が間違っていた。

 

というか自我と同一化していた。

 

自我視点を通すと、すべてを間違って解釈して、歪曲する。

 

「個人」「過去」「記憶」「思考」は幻想。

 

過去という思い込みは、静かに見られ、感じられ、消えていくままに。

 

そうして、自我は消えていく。

 

”すべて”が、「純粋」「空」「無垢」だと気づく。

 

「純粋」という確かさだけが実在している。

 

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氣づきを与えてくれた父、これまで出会ったすべての人に感謝します。

 

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無垢性とは部分的な特性ではない。

それは全的となるまでは実在しない。

部分的に無垢なるものは時としてかなり愚かになりやすい。

彼らの無垢性は、それが普遍的に適用される一つの観点となるまでは、

叡智にならない。

無垢なる知覚、すなわち真の知覚とは、決して誤って知覚せずに、常に真に見る、という意味である。

さらに簡潔に言えば、存在しないものは見ず、常に、存在するものを見る、ということである。

【奇跡講座 テキスト第3章 Ⅱ 2:1~6】

 

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