父と母のはざまで葛藤する「子ども」(役)の私というストーリー。

 

「分離意識」「自我」の私。

 

思考、記憶、は「自我」の捏造だったと気づき、癒されていき、その気づきの表れとして、こんな形➡●奇跡を見た。

 

深い部分で、握りしめて離さないでいた思考、記憶、が消えていった。

 

両親たちの再会に立ち合い、感動ののち、なんだか笑えてきた。

 

離婚、喧嘩、意見の相違、被害者意識、加害者意識・・・。

 

深刻でドラマチックな世界は、「自我」の作った世界。

 

そこにどっぷり浸かっている。

 

「私」という存在がなくならない為の、「自我」による必死の手段。

 

何十年もいがみ合い、すれ違ってきた両親が、目の前で、あんなにアッサリと和解したことで、拍子抜けした。

 

悲劇だと思っていたことが、喜劇に変わっていった。

 

「私が”私”というキャラクターを死守するために、私が、「深刻」な世界を握りしめていただけだった」と。

 

「私」「自我」を信じ、それを守ってきた。

 

普通だと思い込んでいる”思考””記憶”の自動反応で過ごし、「私」「自我」は強化されていった。

 

「自我」でいる限り、「私」という自我のキャラクターを守らないといけない。

 

だから、外に敵がいるような被害妄想を見続け、苦しむことを続ける。

 

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そんな私と世界を、そっと優しく、脇におく。

 

「自我」を”見つめる側の視点”に意識的になる。

 

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両親の再会は、「私」という自我のストーリーを終わらせていいって、ようやく「私」が「私」を赦したことをお知らせしてくれた。

 

解放の「ギフト」だ。

 

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単純さとは、ゆがんだ心にはきわめて難解なものである。

あなたが無から作り出した歪曲のすべてについて、考えてみなさい。

すなわち、あなたが無から織りなした奇妙な形態や感情や行動や反応のすべてについてである。

あなたにとって、単純な真理ほど異質なものはなく、耳を傾けたくないものはない。

 

【(テキスト 第14章 Ⅱ 2:3-5)】