十二縁起では人は救えない | 真実は人を幸福にするか?

真実は人を幸福にするか?

桑田義雄が、うかんだり、もぐったりするブログ

仏教の基本概念に、十二縁起(十二因縁)というものがあり、
仏教学では初歩知識として、必ず学ぶ事になっている。
仏教修行者で言えば縁覚(独覚)と言われる、
師匠に支持せぬ単独修行者が、十二縁起を瞑想する事で、解脱する事が可能だとされている。
では、十二縁起とは何かと言えば、
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死
の十二の概念の事である。
最後のほうの「生、老死」は、輪廻転生を示す。
仏教とは、輪廻転生を悪しきものとし、ここから解脱する(再び生まれ変わらない)事を目的とする思想である為、十二縁起のような理屈が生まれたのだと考えられる。
釈尊が十二縁起を説いたと考えるのは、早計だろう。
十二縁起の元となる事は説いただろうが、今日の形に整備されたのは、その後の時代だろうと思う。
ともあれ、何せ、仏教学の入門書に書いてあるくらいなので、私も一生懸命にこれを理解しようとした時期があった。
「お前の理解力が悪い」と言われれば、どうしようもないが、
私の感想から言って、この十二縁起には無理が多い。
理解しようとして理解できるものではないし、このように実践したからと言って、輪廻から解脱できるものとは到底思えない。
まず、「理解できない」と断定したのは、人によって解釈がまったく異なる事。
そして、どのような人の解釈を聴いた所で、釈然としない。
つまり、過去において、ある坊さんが、この十二縁起を完成させ、それが伝承されるに至ったものと思われる。
だが、完成した時点で、その内容に問題があった為、教義として継承はされるが、実践不能なものとなったと思われる。
私がなぜ、このブログでその事を書いたかと言えば、後世の研究者が、わざわざこんなクソ教義を理解する手間をかけて欲しくないからである。

あえて、十二縁起を無理に解釈してみるとすれば、簡単に言えば、無明(煩悩)が原因となって、輪廻が生まれる。
だから、無明を断てば、輪廻しないで済むようになるという話なのだ。
ところで、その無明とは何かと言えば、我々が単に真理を知らないという意味の無明ではない。
何が輪廻するかと言えば、魂(霊)が輪廻するわけだが、輪廻をスタートさせる最初の時期の無明である。
つまり、我々の魂は、宇宙エネルギーより分岐したものであるが、その分岐した時期の無明なのだ。
宇宙エネルギーそのものは思考せず、善も悪も無い。
単に物理法則によって、ポプラの木が種を吐き出すように、宇宙エネルギーは魂を吐き出す。
一種の繁殖活動を行う。
それによって、我々の魂が生まれ、そこから輪廻転生の旅に出るのだが、最終的には、善悪の分からぬ当初の状態から、輪廻により経験を積み、善悪を理解し、そして、罪業を懺悔し、償いをし、善を積んで解脱する。
解脱後は、単純に宇宙エネルギーに帰るわけではない。
宇宙エネルギーには、正の面と負の面がある。
(必ずしも太陽エネルギーが善で無いように)
その正の面を生かし、負の面を排除する。
それが出来るのが解脱者なのだ。

それではさらに、十二縁起の個々を解説する。

無明:魂が誕生した時の煩悩(善悪の区別がついていない)
行:魂が生命体として行為をする事
識:カルマ(ここでは悪いカルマを示す)を積む事
名色:カルマによる報い
六処:眼耳鼻舌身意(カルマにより生物として再誕する事?)
触:外界との接触
受:触による感覚
愛:感覚により愛着が生じる事
取:愛したものを欲しくなる事
有:欲したものを所有する事
生:再誕
老死:生まれれば老いて、また死ぬ

これは私が様々な書物から学び、整理した解釈だが、
何の事かさっぱりわからないだろう。
あえて言えば、「六処、触、受、愛、取、有」あたりが、わかりやすいし、なるほど、と思う。
ただし、全体的に教義として見れば、いかがなものかと思う。
この教義(十二縁起)によれば、最初の「無明」を消せば、輪廻から解脱できるという事になる。
ならば、どうやって最初の「無明」を消せるのか?
その説明がまったく無い。

あえて言えば、宇宙エネルギーには善悪の感情も無く、魂を、次々に産卵して行く。
これはゴキブリが繁殖するのと原理としては違わない。
そもそも、魂など生み出さなければ、輪廻転生も無いし、我々が日頃受けている苦悩も無い。
「宇宙エネルギーよお。魂なんて生むなよ。馬鹿」
と言いたいところだ。
ポプラの木が、善悪の意識も無く、種をまき散らすようなものだから、悪態をついてもしょうがない。
ただ、解脱者(神仏)は、原因は、ソコにあると知っている。
魂そのものが、悲しみを背負った存在なのだ。
そして、その魂は、解脱しても尚、消える事はない。
浄化されるだけである。

というわけで、無明を消す、という事は、宇宙エネルギーには正と負の面があると知る事。だが、そこに善悪の意識が無い。修行とは、その正の面に依存し、負の面を避ける事である。
負の面とは、簡単に言えば、繁殖であるとか、弱肉強食である。
宇宙とは、大きな銀河が小さな銀河を吸収する、広大なる弱肉強食の世界である。
阿鼻叫喚の世界、それが宇宙だ。
崇拝すべき対象でも何でもない。
ある、電気エネルギーを神として崇める宗教が存在した。
人が太陽や惑星を崇めるのも、それと大差無い。
阿鼻叫喚の世界を崇めてどうするのか?

ちなみに、偶然に偶然が重なって、吾が地球は、生物が生存しやすい惑星となっている。
これは、神の意志でも何でもなく、天文学的偶然である。
クリスチャンの皆さま、今、俺は皆さんを阿保だと言っているぞ。
怒れ。
中期密教以降、大日如来を宇宙の創造主として神聖化されたので、中期密教もクソなんだが。

さあ、続きをやろう。
十二縁起の他の部分を見ても、どこにも、「懺悔」や「善行」という、カルマを解消する為に不可欠な要素が無い。
これでは、瞑想し、輪廻のカラクリを知れば、解脱できてしまう事になる。
阿保か!

例えば、人から財産を奪う。
それで懲役を食らう。
刑務所に心理カウンセラーが来て、
「あなたはどうして窃盗をしたのだと思いますか?それは、幼少時に親から虐待を受けたトラウマが」などとやり出す。
そして、その犯罪者は、
「ああ、幼少時のトラウマが犯罪の原因だったのか!」
と悟る。
その瞬間、犯罪は許されるでしょうか???

これと同じミスを十二縁起はやらかしている。
贖罪の行動なくして、罪は許されない。
それは、カルマという次元についても同様である。
贖罪なくして、輪廻からの解脱はない。
ところが、十二縁起に贖罪の要素が無い。
つまり、十二縁起には、教義として致命的な欠陥がある。
それを知って以降、俺の頭の仏教辞典から「十二縁起」という単語が消えた。

傲慢かまして、いいべか。
そもそも、お釈迦さま自身にも、贖罪の概念が薄かったようだ。
お釈迦さまが影響されたと思われるジャイナ教のほうが、よほど贖罪の概念が強い。

その後の仏教では、ひたすら懺悔という事が言われるようになり、お釈迦さまのミスをカバーした形になっている。

あれやこれや語ったが、仏教教義というのは、大なり小なり、こんなものだ。
だから、俺は仏教に拘泥しないし、自分の論理能力に重きを置いて、正しい信仰のあり方を追求している。

非常に話が長くなりました。
ここまで読んだ人は、坊さんか、仏教研究者か、相当の信心深い人か、数少ない私の理解者だと思う。
中でも、こんな殴り書きの文章の意味が理解できたという人は、天才である。
誤字脱字ご容赦。

仏教の世界では、十二縁起をありがたがって、未だにチンタラ解説しているので腹が立ち、「お前ら無駄話で人々を混乱させるな!」という思いで書きました。

では、今回はここまで。


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