他人をたよりとせず | 真実は人を幸福にするか?

真実は人を幸福にするか?

桑田義雄が、うかんだり、もぐったりするブログ

このところのスピリチュアルブームで、わずかでも優れた思想が生まれたのだろうかと、時間があれば片っ端から、スピリチュアルの喧伝者の発言や、「良書」とされているスピリチュアル本を調べた。
残念ながら、私の目に留まるものは、何一つ無かった。
バラモン教のバガヴァッド・ギーターもヴィシュヌ派という特定の教派から出たものなので、完全な書とは言えない(ヴィシュヌ信仰に偏っている)が、それでもバガヴァッド・ギーターを超えるものは無かった。

スピリチュアルはバラモン教を欧米式に簡略化し、アレンジしたものである。
欧米人は緻密性よりも簡略性を好むからである。
(ドイツ人は緻密性を好むようだが)

スピリチュアルは大衆化させる事を目的としている。
従って、全体的な傾向としては、自己の外に神を置かない。
これは禅と同じ発想である。
自分自身が神である、という論調がスピリチュアルでは一般的だ。
そのほうが大衆が賛同しやすい。
(もちろん、スピリチュアルの教義は、統一されていない為、神を自身の外に置くという思想を持つ者もいる)

 

欧米はキリスト教の信者が大半を占めて来たが、「苦しい時もイエス様は助けてくれなかった」という神への不信が彼らの心中に常にあった。

(余談だが、キリスト教は奇跡を説く。それがゆえに神に奇跡を期待し、裏切られた失望が大きいのではないか。バラモン、仏教思想における神仏は解脱へと導く存在であり、現世利益も語られるがそれは付随的なものである)

それを、禅的発想を模倣し、「神はどこかにいるのではなく、自分自身なのです」のような教義を、スピリチュアルの世界では説かれるようになった。

それが今、多くの大衆に受け容れられている。


インド古代思想であるバラモン教は、大きく、学問派とヨーガ派とバクティー派に分かれる。
学問派は、学問によって修行は完成させるという思想であり、仏教では法相宗が該当する。
ヨーガ派は、ホーマという、いわゆる護摩修行(火を焚く)や、座禅瞑想によって修行を完成させるというやり方であり、仏教では禅宗に近い。
バクティー派は、信と愛を持って神の救いを念じる。
これは仏教では密教や念仏に近い。
バガヴァッド・ギーターはバクティー派に属する。
(尚、釈尊はバクティーを用いない)

なぜ、バクティーという形態が発祥したかと言えば、庶民には学問も難しく、座禅も困難だからである。
つまり、浄土宗で言う自力門と他力門であり、学問派やヨーガ派は自力門であり、バクティー派は他力門である。
神は人を愛し、人は神を愛するという根本的なつながりを大切にする。
このつながりを維持する事により、神(神々)はその偉大なる力で、人を解脱(再びこの世に生まれない事)へと導く。

解脱という思想にピンと来ない人は、おそらく自殺を考えた経験の無い、比較的幸福な人生を歩まれて来た方だと思う。
この世の辛苦をなめた人は、もう二度と、生まれ変わりたくないと願うものだ。
そして、過去に解脱を遂げた神々(=諸仏)も、同様の考えを持ち、修行し、その修行を完成させた。

「来世も一緒に生まれ変わって夫婦になろうね」と語り合う、幸福な縁を持てた方は、来世も何らかの形で二人が出会う可能性は高いが、夫婦になるという事は、諸々の要因に邪魔されて、実現する事は困難である。
そして、四苦八苦に翻弄される人生を再び歩まねばならぬ。
ならば、互いに愛するがゆえに、ともどもに解脱し、神々の世界(ブラフマン)へと行くというのが賢明な考えではないか。

そこで、純粋な、大きな愛で、互いに慈しみ合えば良い。

 

唐突に聞こえるだろうが、創価学会の思想の話をする。
創価学会は「法」を信仰する。
この法則とは、「大宇宙の法則」であると彼らは理解しており、その異名が「南無妙法蓮華経」であると主張する。

私は、信仰には二種類あると考えている。
それは仏信仰と法信仰である。
仏信仰とは、諸仏菩薩(=神々)の魂に対し、祈念し、平安、その他を願う。
法信仰とは、諸仏菩薩ではなく、「法則」的なものを信じる。
創価学会は後者である。

私も昔は、仏信仰よりも法信仰が優位ではないかという考えを持った時期もある。

恥ずかしながら、そのほうが論理的、と感じたからである。

だが、それが次第に変わって行った。
法則というものは、あくまでも法則であり、法則を拝んだところで何ももたらされない。
例えば、万有引力の法則を拝んでも何も幸せになれないし、オームの法則を拝んでも、何も人生は潤わない。

先にバクティーの話をした。
バクティーは単なる「信」ではない。
「信」の他に「敬愛」が必要となる。
つまり、ひたすら愛するという事だ。
法信仰には、この「敬愛」が存在しない。
敬愛が存在しないという事は、無機質な信なのである。

「アレください」「コレください」という、単なるご利益信仰に堕す可能性が高い。

 

観音様でも弁天様でも良い。

バクティーにより祈れば、心は平安になる。

これは論理ではなく、実感の話だ。

 

人を愛した経験がある者には理解できる。

愛には力がある。

愛そのものがエネルギーだ。

愛というエネルギーを神に向けた時、神は愛をもって我々に返す。

 

創価学会員の中には、日蓮を本仏として、それを敬愛するという、日蓮正宗時代の伝統に沿って信仰している人もいるかと思う。
だが、日蓮は果たして本仏なのだろうか?
日蓮の書いた書(御書)ではなく、客観的歴史資料や現代仏教学を学んだ上で、果たして日蓮が本仏と信じられるのだろうか?
そして、肝心な事だが、日蓮を拝んで、あなたの魂は安らいだか?

また、いつものクセで長文化しているが、ともかく、信仰とはバクティーでなければならない。
神々への信と愛こそが、己と己の身を賭して愛する者を解脱へと導くのである。
ガンジーやショーペンハウアーが讃嘆したバガヴァッド・ギーターの核心はここにある。

そこから考えるならば、自己の他に神の存在を認めず、自己そのものを神と考える思想に、何の有益性やあるや。
禅の和尚のすべてが悪人というわけではないが、禅に堕落した坊主が量産されたのは、まさに自己を仏と考えたからでは無いのか。
仏性とは、仏(解脱者)となる可能性であり、自己がそのまま仏という意味ではない。
それを誤解した坊主達は、ことごとく道を踏み外して行った。
そうした、人を堕落させた思想を、今、スピリチュアルは取り入れている。
おぞましいとしか言いようが無い。

(スピリチュアルの概念が広まったので、私もスピリチュアルの用語を借用する事があるが、このような理由で、私はスピリチュアル自体の信仰者ではない)

 

大衆化は結構である。
私のように、誰も耳を貸さぬ話をする者にとって、大衆化ほど魅力を感じるものはない。
だが、間違った思想を説いて大衆化するよりも、正しい思想を説いて、一人にでも役立ったほうがマシであると私は考えている。

人というのは悲しいものである。
自分で自分の語った言葉には感動する事は出来ない。
私が自分で公開した音声を、自分で聴いても、何の感動も無い。

だから私は、正しい思想を語ってくれる者を探し歩いた。
だが、居なかった。

インドの行者や、日本でも修験者あたりに、わずかに居るのではないかと思うが、残念ながら彼らの言葉が私の耳に届く事はない。

真の行者は、なぜか孤高の行者として、名も知られずに余生を終えるからだ。

実にさみしい限りだが、仏陀のこの言葉を思い出そう。

「自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(大パリニッバーナ経)

※ここでの法とは宇宙法則ではなく、教えの事。

 

私は、私のみを信じる。