南無妙法蓮華経の題目に効果が感じにくい理由 | 真実は人を幸福にするか?

真実は人を幸福にするか?

桑田義雄が、うかんだり、もぐったりするブログ

はじめに、このたび、新たな動画をUPいたしました。
動画の画面では、字が細かく、読みづらいと思います。
動画の解説に、テキストをダウンロードできるURLを貼っておきましたので、
そちらを見ていただく事をお勧めします。
今回は、ご視聴いただけると、人によっては涙が止まらなくなると思います。

動画「ソールメイトと出会う方法」
https://youtu.be/BvRy9-zwhZ8

 




さて、本題に入ります。
南無妙法蓮華経とは、本来「妙法蓮華経」という経典に帰依する、という意味である。
しかしながら、天台宗において、三宝のうちの法宝に帰依する場合、
南無妙法蓮華経と唱える、という考え方が出来た。
天台宗出身の日蓮もまた、その考えを継承し、
南無妙法蓮華経とは、「妙法蓮華経」という経典に帰依する、という意味ではなく、
法宝に帰依するという意味であると説いた。
諸仏菩薩諸天は、法宝に帰依する者を守護するのであるから、
南無妙法蓮華経と唱える者を守護する、と考えたのである。
ゆえに、日蓮の描いた曼荼羅に、法華経に登場しない、不動明王や愛染明王のような尊格が種字で描かれている。
ところが、この法宝というものが抽象的であり、何を意味しているのかがわからない。
上座仏教の場合、法宝とは釈尊の教えでしかなく、他に意味を持たない。
ところが、法華経ではこの法宝の内容を明らかにしていない。
私個人の研究では、方便品(創価学会の経本では方便品の肝心の箇所が記載されていない)の中にある

  若し人散乱の心に 乃至一華を以て
  画像に供養せし 漸く無数の仏を見たてまつりき
  或は人あって礼拝し 或は復但合掌し
  乃至一手を挙げ 或は復少し頭を低れて
  此れを以て像に供養せし 漸く無量の仏を見たてまつり
  自ら無上道を成じて 広く無数の衆を度し
  無余涅槃に入ること 薪尽きて火の滅ゆるが如くなりき
  若し人の散乱の心に 塔廟の中に入って
  一たび南無仏と称せし 皆已に仏道を成じき

の部分であろうかと思う。
つまり、どのような方法であっても、仏に帰依する心があれば、成仏するのであると。
これはつまり、宗派対立からの決別宣言である。
当初、法華経の目的はそのようなものであった。
しかし、時間を経るに従い、法華経の内容が変質して行き、やがて偏狭で排他的で独善的な印象のものになってしまった。
そして、恐ろしい事に、法華経では、何が法宝であるか、
つまり、ダルマ(法)とは何かについて、明瞭ではない経典になってしまったのである。

日蓮は言った。
法華経では法宝が明らかにされていない。
ただ、文底に法宝が隠されている。
それは、末法において、地湧の菩薩(日蓮は自分の事だと言う)が明らかにするのだ。
その内容とは、「南無妙法蓮華経」という題目なのだ、と。

これでは、支離滅裂で話にならない。
法華経が法宝を明らかに出来ていない破綻した経典であると認めているようなものだし、
「南無妙法蓮華経」という題目がなぜ法宝となってしまうのかという説明もない。

ただ、日蓮宗信者である美輪明宏は言う。
「南無妙法蓮華経」と唱えれば、色々な神様が集まって来て護って下さるのだと。
間違いでは無いだろう。
それは、先に述べたように、どのような方法であっても、仏に帰依する心があれば、成仏するのであるから。

唱題に根拠が無いものであっても、仏に帰依する心があれば、功徳はあるのだろう。
しかし、傍(はた)から見れば、狂乱した姿にしか見えない。

しかも、創価学会員や日蓮正宗の人々にとっての仏とは、日蓮なのである(日蓮本仏論)。
日蓮を仏であると信じている。
しかし、上記のような支離滅裂な教義を説いた人物が、本当に仏なのだろうか?

私は、正しい宗教をやると、第六感が研ぎ澄まされて来ると思う。
第六感とは、諸仏諸神の声無きアドバイスであり、
それによって、人は正しい道を歩む事が出来る。
ところが、創価学会の信仰を続けるほどに、その感が鈍って行く。

さて、ちょっと話題の方向性を変える。

熊木杏里という私の好きな歌手に、「君の名前」という歌がある。
そこには、このような詩がある。

  君の名前は私にとって
  優しさと同じ
  言葉としても好きに
  なってたと今氣が付いた
  ひとりになっても君がくれる
  氣持ちも同じ
  運命ならまた会える
  そんなことを思っているよ

名前というのは特別な言葉である。
職場でも「あなた」と呼ばれるよりも「菊地さん」とか「新垣さん」と名前で呼ばれたほうが気持ちが良い。
これは、神仏であっても同様であると思う。
「南無妙法蓮華経」と言う意味不明な言葉を連呼されるよりも、
「南無〇〇如来」「南無〇〇菩薩」のように、呼んでもらったほうが嬉しいと思う。

だから、密教ではマントラを唱える。
これは、(日本密教はかなり訛っているが)諸尊の名前を、一体ずつ、サンスクリット語で呼びかけるのである。
名前を呼んでもらったほうが嬉しいだろうし、功徳も出るだろう。

私はこのやり方で、かなり勘が発達した。

創価学会員時代は、勘が働かず、他人の心もわからず、人を傷つけていた。

 

これをもし、創価学会の方がご覧になっていて、信仰の影響力を感じておられないならば、
南無妙法蓮華経ではなく、諸仏菩薩諸天の名を、直接、呼びかける信仰スタイルに変えてはいかがかと思う。
方法論がわからなければ、ご質問下さればお答えします。

 

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