失われた10年と失われた30年 | 暇人の愚痴

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 世界的な失われた10年(ロシア問題)と日本などの失われた30年(日本、アメリカ問題)とは、原因も結果も違う。ソ連の崩壊は、もちろん旧連邦国だけなく世界中に社会主義の不在を招いた。それを喜んだ一部の米国などによる社会主義に対する自由主義の優秀論は、もちろん間違いである。

 それから欧州の衰退がはじまり、米国の停滞なども始まる。世界的に貧困や難民も増え、世界的な紛争に歯止めが利かなくなる。もちろんそれ以前から世界には困難の数は数知れず、しかし米露があった、強かった故に抑止されていたものが、表面的でなく(ても)過激さを増していた。

 

 日本でも調子の狂った非自民政権による超インフレ投機経済の崩壊によるデフレや不信が進行し、しかし一方で青少年などのブームなどが目立つ事態となった。その後の自民連立政権や民主党政権などは、保守反動化を国全体に広げていった。それに対する自由主義や民主主義や社会主義などは、マスコミなどに無視され、広がった割には褒められることは少なかった。

 その因は、一つにマスコミの政治不信キャンペーンや行政改革応援ムーブによる非活性化、負担増が、また同時に世界中に広がったデフレ、環境破壊問題、移民や難民問題などにも、きっちりとした突込みは生まれなかった。特に先進少子化は先進を衰退、破壊し、途上の人口爆発は中堅を破壊し、政治(家)の無能を印象付ける結果ともなった。

 

 その後の自社連立政権は、社会主義政権や構造主義政権などを生みながら、自由主義と社会主義の連帯的不況、衰退を招きかねなかった。この時期での社会主義化は、総評、同盟の連合化などにより、世界から失望の感想を避けられなかった。この民主党ブームは、一部のマスコミなどの不思議なくらい無責任な二大政党論や政権交代論などの現実逃避も招いた。

 ましてその後の自公連立、社会党の破壊は、国民の政治への不信を頂点に導いた。自由主義の再生は口だけでならず、公明の動きは世界に日本の不透明感、分かりにくさを招き、国民の一時の世界化の流れも閉鎖的な一国主義へと移っていった。これによる日本の反動化は、米国などに対してもいい(影響の)わけがなかった。

 

 大まかに言ってマスコミの昭和と平成(論)の違いは、次のようである。それは民主国ブームや男女平等などの共栄ができず、日本の改革を遅らした。

 縦社会、定年制、年功序列、地方中心、多様性、男女分業、(下請け構造)などは、日本の非先進化論などを世界に広げ、横社会、契約雇用、能力主義、東京中心 画一性、男女同一(平等)、非正規などは、マスコミを含む保守勢力の停滞も招いた。

 

 もちろんこれらはマスコミの作り出した論理構造であり、実際の現実とは程遠かった。それで(好景気にならず)デフレが続くという状況は、実際にはこれらが共存し色々な世代が同居する社会、その共栄を図らなければならなかった証でもある。

 急速なインフレ化や、政経の一致、経費人件費削減、東京一極集中などの現実は、労働条件の悪化を招き、かつ何かに集中するということができない生半可な状態を招いた。中途半端な格差論は、ますます日本の分断を進めたに過ぎなかった。

 

 

 特に言葉だけで多様性を促進したというマスコミの論理は、画一的な都市化が目指す空洞化を乗り越えられなかった。

 

 小池都知事は、オリンピックや自民、民主といった大政党を容認し、多様な東京を志向し、しかし自身は特徴的な思考をやめなかった。今の関東の位置について、外の県とどう関わり、どうするかについて、マスコミでもほとんど紹介されていない。

 大阪の太田氏や維新などは、一旦関西圏を崩壊させ大阪中心にしようという、一部の自民のまたはそれより右派保守の考え方を打ち出した。

 

 しかし僕はむしろ、(今の)東京と関東の関係こそ、歪んだものと考える。関西の各地が日本で重要、人気があるのに対し、関東の多くが、都に帰属することで今一実力や人気が評価されていないことは日本にとって大きな問題である。

 関西のありかた、また多くの地方の志向と、東京や維新の志向は大きく違い、地方自治改革の基本である本当に東京を首都としていることが現在や未来の日本にとっていいと言えないことに、帰属していない。

 

 

 日本のそのような(ロンドンやパリと言った)欧州性からはみ出し、多くの国の(ワシントンと言った)本来の政治首都を東京から移すこと、作ることは日本の地方政治にとって、長い間の課題、目標であった。

 そういう意味でも、維新の大阪都の志向は、その反対に、大阪を東京的な古い(新しすぎる)意味での首都にしたい、匹敵することを目指すというが、それが本当の日本の地方に受け入れられるかどうかは、分からない。

 

 維新が関西の位置を、これまでの色々な府県の共存、共栄から、大阪の独り勝ちの構図を強要することは、それくらいでないと大阪のインフラ整備ができないのかもしれないが、他の意見を無視、軽視することが、本当にいい結果を招くのだろうか。

 東京や大阪などを、ワシントンに一部の機能を足したものと施行するか、ニューヨークやロサンゼルスのような大都市とし、新しいワシントン、政治的首都を(東京や大阪とは)別に成立させるか、今の国民は問われているともいえる。

 

 

 維新の先進と少子化、経済と政治の一体化などを進めたマスコミなどは、今もその傾向を縮小していない。途上や中堅などの健全、正常な思考を求めないで、世界にもその影響を拡大している。

 文化や教育まで先進的に政治や経済と一体化させ、しかもそれを批判する勢力を悪と決めつけている。日本の中の中堅や途上的志向まで放棄、攻撃し、それで反動や保守を少なくするのであれば、本当の民主化を目指さなければならない。

 

 今の自由主義や社会主義の欠点を指摘しながら対策を打たず、民主主義や民族主義の実態、傾向に目を向けず、反動や保守まで先進に巻き込んでいった。

 それらはもちろん一部のインテリ思考であり、それらの健全な政治化とせず、国民自らの生活、福祉化に対応せず、政治や経済や文化や歴史の多様性を放棄、攻撃し、国民自らの自治を守る地域規模を無視し、自治の無能、無理化を今も進めている。

 

 それはもちろん世界の中堅や途上を否定、排斥し、無視し、その健全な発達を破壊している。政治などについても、一部のインテリ化、専門化を進める、認めるのではなく、それ(主権)に従う国民に自治を放棄させかねない状況を変えなければならない。

 失われた10年の延長的な思考だけではなく、さらに多くの色々な課題に目をそらせてきた30年を、本当に越えなければならない。

 

 

 90年代の先進化の暴走と崩壊、自民連立政権の反動化などにみられる失われた10年は、世界中を崩壊させ、立ち直れない位の衝撃を与えた

 しかしそれは本来の21世紀の先進化を阻害し(不可能にし)、失われた30年を作った大都市の崩壊と田舎の崩壊、過密と過疎を目指した分断は、世界中から悪い意味での注目を浴びた。

 

 都市部でも、本来の先進化、福祉化などを捨て、図った合理化、新興化は、田舎の崩壊を招き、程よい成長、生活を破壊した。深い思考を持つ高齢層、大人層を馬鹿にし、学ぼうとせずに破壊したマスコミは、若者オンリーという傾向さえ進めた。

 高齢層の男女問題や、大人層の育児問題は、マスコミなどでの解決はできず、若者に媚びた政治問題、経済問題は、日本の世界化、歴史化、学習化、文化化などの低さが、日本の全てを破壊する危険を持っているといえる。