花 | クツミのブログ

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ひとりひとりの内側が
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年があけ

 

 

初めて

 

 

 

本棚の

 

 

 

ぱっ。。と

 

 

開いた

 

 

ことば。。

 

 

 

こころ

 

深く。。

 

 

のこっています

 

 

 

 

         花がひらくという〃生〃に、

         自分の〃生〃を感じる。

 

ぼくには、桜の花が美しいといって、鑑賞する気持ちはぜんぜんない。

静かに鑑賞することが正しいとも思わない。

ぼくが息をはずませるのは、花がひらくという神秘感の驚きだ。

それが僕自身んお生命に共振を与える。

原始時代の人間も、この突発的な自然の身ぶるいに、

ともに踊り動く自分の生命を感じたと思う。

花を眺めたり、愛でるなんてことより、花がひらく、という自然全体の〃生〃

とともに、自分の〃生〃を感じるのが本筋じゃないか。

その生をいつのまにか人間は感じなくなって、花を眺めて楽しむという

趣味的感覚に走るようになってしまった。

それは進歩であり洗練でもあるけれど、堕落である。

日本には「お花見」という伝統があるじゃないか、と言うかもしれない。

だがそれは、現代の感覚とはちがう。

花見とは、本来、人間が〃自然の循環〃いのちの節目にとけこむ祭〃であり、

もともとは宗教的なものだった。その伝説がかすかに残って、江戸時代、市

民は花が咲くと、女房を質に入れてもと、上野や向島へくり出して浮かれた。

当時は封建制度というきびしい階級制度社会下にあったが、お花見のときだけ

はそのワクを忘れる無礼講が伝統だった。

鼻の下では上下貧富のしきりははずされた。

貧しい人は日頃のウップンを陽気にぶちまける。

富貴な者は、庶民たちとおなじ場所、おなじ雰囲気のなかで遊ぶことで、

普段のむなしさが満たされた。

全ての人が抑えられていた人間性を、花の下の無礼講で再獲得する。

日ごろ分断されていた世界が、ひとつに溶けあったんだ。

お花見とは、桜でも酒でも、御馳走でもない。遊ぶことでもない。

おのおのが自己発見し、人間として充実し、ふくらむのが本筋なんだよ。

         (孤独がきみを強くする 岡本太郎 著より抜粋)

 

 

流れ星流れ星

 

 

 

流れ星流れ星

 

 

 

 

そんなこと

 

 

感じながら。。

 

 

 

お花を

 

めでて。。ニコ流れ星ラブラブ

 

 

 

 

 

ほっこり。。

 

 

 

ハニーブッシュティー

 

 

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     (水は答えを知っている 江本勝 著 よりお借りしました)

 

 

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です。。

 

 

 

 

 

 

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団子。。!?ぶちゅー 。。。。ねー

 

 

 

 

十二月

 

 

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全うした

 

 

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おばちゃん

 

 

 

育てた。。

 

 

丹波の黒豆

 

 

 

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煮たの

 

 

 

 

めいいっぱい

 

 

花咲かせ

 

 

きった。。

 

 

 

 

 

おばちゃんの

 

 

愛。。

 

 

いただきました

 

 

 

 

 

 

 

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恐れから

 

自由で

 

 

安らぎに

 

包まれています星空ベル流れ星流れ星流れ星ベル

 

 

流れ星流れ星クローバー

 

 

流れ星流れ星流れ星クローバークローバー