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木漏れ日の海

フィギュアスケートの羽生選手を応援しています。
プログラムの感想を中心に語ります。

世界的なバレエダンサーであるウリヤナ・ロパートキナ(2017年に引退)のドキュメンタリー映画「ロパートキナ 孤高の白鳥」を見た。

 

彼女が現役であった2014年の作品。

 

以下が、作品の概要。

 

ロシアで最も格調高いバレエ団で、世界最高峰と称えられる、マリインスキー・バレエ。

伝統あるバレエ団で頂点に立つのが、ウリヤーナ・ロパートキナ。

彼女の踊る白鳥は世界一と評され、現役にして既に称号も手にしている伝説のバレリーナだ。

そんな彼女に撮影敢行したのが、バレエ映画をライフワークとする女性監督、マレーネ・イヨネスコ。

女性ならではの目線で迫るカメラが映し出すのは、ロパートキナのリハーサルや完璧を追求する姿。

本作はロパートキナの魅力と素顔に迫る、美しさに満ちたドキュメンタリーである。

 

ロパートキナの練習風景やリハーサルの様子、インタビューが淡々と綴られていく。

そこから垣間見えるのは、彼女が持つ人間としての品格が、その踊りに現れていること。

そして、高いプロ意識。

 

テレビのドキュメンタリーのように分かりやすい起承転結や、盛り上げるナレーションが入っているわけではないけど、ロパートキナその人の魅力が伝わってくる映画だった。

 

ここで羽生ファンとして妄想したのが、羽生君のドキュメンタリー映画を作ったらどうなるかということ。

 

羽生君の練習風景は、非常に魅力的だ。

よけいなナレーションなしに、普段の練習風景を長尺で見たい(これはすでに「Share Practice」で満たされているが)。

 

また、プログラムを作り上げるところや、振付、リハの様子が見られたら、非常に嬉しい。

 

これを、テレビ畑のスタッフではなく、ドキュメンタリー映画監督や映像作家に撮ってもらえたら、と妄想する。

インタビューも、いつもの質問とは一味違ったものになるだろう。

 

映画にすることのメリットは、日本だけでなく、世界各国で上映できること。

そして、長く残ること。

DVDとして残るし、ディズニープラスやアマゾンプライムなどの配信で、長く見ることができる。

 

やがて長い時間がたって、羽生君のスケートが伝説になるときが来るだろうけど、映画として残っていれば、その輝きを未来の人たちも見ることができる。

 

余談だが、個人的に舞台裏もののドキュメンタリーが大好きで、「もののけ姫」を制作する宮崎駿監督に密着したドキュメンタリーが非常に面白かった。

 

もちろん、羽生君の負担にならないことが大前提だが、そんな願望を書いてみた。

「アイスジュエルズvol.18」に載っていたMIKIKO先生のインタビューで印象に残ったこと。

 

「GIFT」のストーリーが羽生君から送られてきたとき、そこまで開示するのかと驚いたそう。

 

確かに「GIFT」の中で繰り広げられたモノローグは、予定調和的な、「ここまで開示して、こうもっていったらキレイにまとまる」という域をこえていたように思う。

 

もちろん、全てがノンフィクションではないだろうし、全てを開示しているわけではない。

だけど、GIFTを見たとき、ここまで踏み込んで表現するのかと驚いた部分もあった。

 

常々、羽生君のスケートを見ていて思うのは、「こんなに自分を開放するのか」ということ。

羽生君のスケートには、照れたり、変にポーズをとったり、出し惜しみしたり、隠し立てすることがないように見えるのだ。

 

もちろん、全てをさらけ出しているわけではないだろうけど、それでも、かなりの部分を開放しているように見える。

 

それは、天性のものかもしれないし、かなりの部分を開放しても大丈夫という強さなのかもしれない。

また、自分を知ってもらいたい、見てもらいたいという欲求かもしれないし、見る者を信じているからなのかもしれない。

 

氷上で、自分を開放するという強さが、羽生君は圧倒的なのだ。

 

「氷上で出し切る」という場合、体力や技術、表現力だけではなくて、自分自身のことも出し切っているように見えるのだ。

 

だからこそ、そのスケートには、強力な真実味が宿り、目が離せなくなる。

 

また、ここまで開放して美しいのは、その根っこにある人間性が美しいからだろう。

(完璧ではない、人間らしいところも含めて、それでもやはり美しいと思う)

 

本当に、稀有な人だと思う。

プロ1周年の7月19日、羽生君からのメッセージが新聞に載った。

その中で、とても印象に残った言葉がある。

 

「これからも常に理想を目指し、そして、理想を常に更新し続けていきます。」

 

この言葉には、驚いた。

 

「常に理想を目指し」

これは、わかる。

理想を目指すというのは、理想に向かってまっすぐに歩いていくこと。

 

驚いたのは、その次の言葉。

 

「理想を常に更新し続けていきます」

 

自分の中のイメージでは、理想というのは、ある一定のものだと思っていた。

例えば北極星のように、遠くはあるけど、天空のある地点にピタッと留まっているものだと。

だから、そこを目指していけば、少しずつでも確実に距離をつめることができる。

 

だけど、羽生君は、理想を更新するという。

それは、理想が一定の場所に留まっているのではなくて、より高く、遠くに動いていっているということ。

 

更新する理想を目指すということは、おのずと、自らの位置をさらに、いっそう高めていくということ。

 

この発想が、本当に斜め上というか、思いもよらないというか。

 

だけど、考えてみると、前人未到の道を行くというのは、そういうものなのかもしれない。

だれも到達したことのないところにいるのだから、その先というのは、自分で次々と見出していくしかない。

 

今までに誰かがやったことがある、そういう具体的なものとしての「理想」というものがないのだから、自分で「理想」をみつけて、「理想」を更新していく必要がある。

 

改めて、羽生君のスケートはそういう場所にいるのだと、プロ2年目が始まる、新年のこの日に思った。

プロ1周年、おめでとうございます。

 

この1年を振り返ってみると、「飛翔」という言葉がふさわしいように思われる。

 

競技フィギュアという枠や枷から解き放たれて、より自由に、より厳しくフィギュアスケートを追求した1年だったと思う。

 

プロフィギュアスケーターとしての旅路の、道筋と方向構成を提示して、力強く歩み始めた1年だった。

 

プロとして最初の1年間。

1年という短い間だったが、成し遂げたことは非常に多く、その1つ1つが大きい。

 

その中には、今までと同じであると安堵させる部分と、新たに見せた方向性によって驚かせることの両面があった。

 

今までと同じことは、フィギュアスケートを追求していくこと。

そのための努力を寸分変わることなく続けていく。

その飽くなき探究に、安堵した。

 

そして新たな方向性での驚き。

プロになってからは、驚きっぱなしの1年間だった。

 

既存のフィギュアスケートの枠を飛び出し、フィギュアスケートの可能性を広げていった。

成し遂げたことは、多い。

 

プロジェクションマッピングや大画面の映像との融合によって、プログラムのイメージを喚起し、広げること。

これは、「プロローグ」に始まり、「GIFT」で花開いた。

 

ダンスとの融合によって、身体表現としてのフィギュアスケートを開拓すること。

これは「阿修羅ちゃん」や、「if...」で具現化した。

MIKIKO先生という、ダンス・身体表現・演出のプロフェッショナルとの協業があった。

 

アイスショーを自ら演出・指揮すること。

「プロローグ」に始まり、「GIFT」で一気に駆け上った。

ショーのコンセプトを決め、プログラムを配置し、映像を決め、言葉を紡ぐ。

 

自らのプログラムを振り付けること。

これも競技という枠から飛び出したことによって、可能となったことだろう。

羽生君の技や身体能力を知り尽くしている羽生君自身による振付は、フィギュアスケートの限界を押し広げる。

「名前のないステップ」や「表外ジャンプ」が散りばめられた「if...」は、技術的にもフィギュアスケートの可能性を広げた。

 

公式ユーチューブの開設。

ここで新プログラムが披露された。

また、撮影・編集も羽生君自身の手による。

羽生君が見せたいスケートが直接、届けられる。

 

こうしてあげれば、キリがないほど、この1年間で新たな挑戦があった。

そして嬉しいのは、その全てにおいて、中心にあるのが「フィギュアスケート」であること。

 

今日から始まるプロ2年目の日々。

これから、どんな世界が広がっていくのか。

楽しみにしながら、ついていきたい。

羽生君がプロになってから、明日で1周年を迎える。

 

この1年間の飛翔は、目を見張るほど鮮やかだった。

多くのことを成し遂げた1年間だったけど、個人的に驚いたのは、羽生君の自己プロデュース力の高さだ。

 

「プロローグ」「GIFT」「notte stellata」。

これらの単独・座長ショーで見せた制作・総指揮という役割。

その段違いのレベルの高さに驚いている。

 

自分で自分をプロデュースする。

これを実際にやって成果を出すことは、非常に難しい。

 

自分は何者なのか。

何のためにやっているのか。

目指すべきものは何なのか。

 

これらの事柄を確固たるものとして認識していないと、決して自己プロデュースは、できない。

 

今思い返してみると、羽生君の場合、アマチュア時代から自己プロデュースは遂行されていた。

 

まず、それが顕著に表れたのは、「SEIMEI」というプログラムをつくったこと。

このプログラムは、おそらく羽生君の強い意向があって生まれたのだと思う。

選曲、衣装、コンセプト、振り付け、プログラムのタイトル。

それら全てが羽生君プロデュースであると思われる。

そして、このプログラムは平昌オリンピックの金メダルをもたらし、羽生君の代表作になった。

 

「春よ、来い」

これも選曲やプログラムのテーマに、羽生君の意思が感じられる。

 

「天と地のレクイエム」。

このプログラムは、こめられているものが強すぎて、いまだにこのブログでも感想を語れていない。

羽生君の意思の塊、魂の叫びのようなプログラム。

 

羽生君自身がプロデュースしたプログラムというものを、一つ一つあげれば、きりがないほどだ。

特に平昌以降は、ほぼ全てのプログラムが羽生君の意思のもとに生まれたものだと思われる。

 

そして、プロになってからは、プログラムはもちろんのこと、ショー全体のコンセプトや構成にいたるまでが、羽生君の意思のもとにプロデュースされている。

(もちろん、MIKIKO先生やたくさんのプロフェッショナルとの協業だが、大元のコンセプトには羽生君の意思があると思われる)

 

そして、それはショーにとどまらず、ユーチューブチャンネルの制作・運営や出演媒体の選定など、全ての仕事におよんでいる。

 

だからこそ、これからも私たちファンは、驚かせられ続けると同時に、安心してついていけるのだと思う。