木漏れ日の海 -27ページ目

木漏れ日の海

フィギュアスケートの羽生選手を応援しています。
プログラムの感想を中心に語ります。

今回も興味深い話が目白押しだった。

 

とくに印象に残ったところを順不同で。

 

おげんさんの「人生の曲」を聴いた後のコメント。

 

ピアノ曲を聴くと、自分が滑る姿がうかんでくるという。

 

本当に羽生君は、根っからのスケーターだなと思った。

そしてこれが、自分でプログラムの曲を選んだり、セルフコレオができる理由なのかも。

 

音楽を聴くと、プログラムのイメージが浮かんでくる。

この曲の世界をどうスケートで表現しようかと、自然に考え始めるのだなと。

 

ここで豊豊さんの絶妙の質問が入った。

「それは、自分の目線?客観目線?」

 

羽生君は「観客です」と答えた。

俯瞰で見えるのだと。

 

この話が、とても興味深かった。

 

羽生君がプログラムをイメージするときは、自分が滑るのを外から見ている視点なのだ。

滑るのは自分だけど、プログラムのイメージは客観。

 

これは、何気にすごいことだと思う。

自分の作品(プログラム)を、自分以外の目線でイメージできるのだ。

 

これができるからこそ、羽生君のスケートは、あんなに美しいのかもしれない。

 

羽生君のスケートを見ていると、プログラム世界や空間の広がりを感じることがある。

 

滑っているのはリンクの上で、会場という閉鎖空間の中だけど、そのプログラム世界は会場をはるかに超えて、天にも地にも広がっているように感じることがある。

 

いつか、そういう話も聞けるといいなと思った。

 

また、映像にフィルターがかかっていて、色あいが浮かぶというのも、興味深かった。

 

プログラムごとにイメージする色があるのかなと。

また、フィルターがかかるというのは、どういう感じなのだろう。

 

例えばカメラの場合だと、フィルターを変えることによって見え方や色味、世界観が変わる。

そんな感じで、プログラムごとに見える世界が変わるのかもしれない。

 

そういうふうに、色や世界観がプログラムごとに違っていて、だからこそ、あんなにも多彩なプログラムを滑れるのかもしれない。

 

また、競技時代の曲選びの話もあった。

競技用の曲選びは、「受け」と「インパクト」と「らしさ」が大事なので、曲を決めるのは大変だったという。

自分に合うかまで考えると、ドツボだと。

 

ひるがえって考えてみると、プロになってからの選曲は、そういった制約がなくなったということ。

 

プロになってからショーで披露された「いつか終わる夢」「阿修羅ちゃん」「あの夏へ」を改めて考えてみた。

これらの曲は、羽生君が表現したい世界を見せるための選曲なのだと思う。

 

そう考えると、しみじみと感慨深い。

そして、次に披露される新プログラムが楽しみでならない。

どんな曲で、どんなフィルターや色合いのイメージのプログラムを見せてくれるのだろう。

 

そして、最後のほうにでた話。

 

今、先が見えない。

怖いし不安だらけだけど、可能性は無限大だと思って努力している。

自分が人生を終えるときに、いいものを残したなと胸をはっていられるように、毎日を過ごしたい。

 

それに対する、おげんさんの言葉。

 

未来が見えないというのは、一番いい状態。

「こうなりたい」というのがしっかりとあるうちは、誰かがやっていることがビジョンにあるから。

最先端で誰も降り立っていない島に一人で立っている。

その先が真っ暗というのは、とても面白くて。

はたからみると、未来がある。

でも自分は未来が感じられないというのが、表現者として一番面白い状態だと思う。

 

なるほど。表現者というのは、とても大変だなと、自分なんかは思ってしまう。

先が見えない真っ暗ななかで、自ら灯りをともして、形あるものを作らなければならない。

これは全く経験したことがない境地。

経験した人にしか分からない世界なのかもしれない。

 

おげんさんの言葉は力強く、あたたかかった。

 

この番組は、3人が、相手の話に真剣に耳を傾けて、楽しいことも深いことも語り合う。

とても良い番組だった。

 

おげんさん、豊豊さん、ありがとうございました。

読書が趣味で、たくさんの本を読んできた。

古今東西の、多くの作家の素晴らしい本と出会ってきたけど、特別に好きな作家が1人いる。

 

その作家のことを知ったときには、すでに物故作家だった。

学生時代に出会い、ほとんど全ての著作を買って読んだ。

 

就職試験のときに「一番好きな本は?」と聞かれたときも、迷わずに、初めて読んだ彼の本を挙げた。

 

若いころに出会ったので、当時は、まだこれからたくさんの作家に出会えるだろうと思っていた。

そのとおり、その後もたくさんの素晴らしい本に出会ったけど、彼ほど琴線に触れる作家には、今のところ出会っていない。

 

私は、同じ本を2度読むということは、ほとんどしない。

世の中に本はたくさんあるし、読みたい本が次々と出てくる。

これからの人生で読める本は、時間を考えると、その中のごく一部だから、できるだけ新しい本を読みたい。

(今までで特に気に入った本を老後に読もうと目論んではいるけど)

 

ところが、先日、本屋さんでたまたま、その作家の特集をしていたので、一番最初に読んだお気に入りの本を手にとって、なにげなく読んでみた。

 

そうすると、あっという間に引き込まれた。

その作家は、探究をする人で、見たことのない世界、かつ自分も訪ねてみたいという世界に連れて行ってくれる人だった。

 

そして、やはり自分にとっては唯一無二の作家だと再確認した。

最初に読んだころからかなりの時間がたって、色々な作家や本に出会ってきたけど、自分にとって最高に琴線に触れる人だと。

 

そして、そのとき、羽生君のことを想った。

 

私は、現在進行形で活躍している人のファンになったのは、羽生君が初めてだ。

作家、スポーツ選手、俳優、歌手、芸術家。

 

それなりに好きで応援している人はいるけど、かなりフラットな感じなので、心の底から好きで応援するというのは、羽生君が初めて。

 

そして思ったのは、ここまで琴線に触れる人に出会うことは、人生でめったにないということ。

 

そう考えると、現在進行形で応援できて、まだ見ぬスケートをこれからも見れるということは、なんと貴重なことか。

これから見せてもらえる、その演技の一つ一つを大切にしていきたいと、改めて思った。

今年の24時間テレビでも羽生君のスケートが見られるかなとソワソワしているのだけど、まだお知らせがないので、去年の動画を見ている。

 

去年の24時間テレビで滑ったのは、「序奏とロンド・カプリチオーソ」。

 

ユーチューブの「日テレNEWS」に1つのカメラで撮ったノーカット版があがっているのだけど、これが素晴らしい。

 

ずっと1つのカメラで追いかけているので、羽生君のスケーティングのスピードや質を堪能できる。

 

そのスケーティングは流れるようでもあり、エッジが深くて切れ込むようでもあり、素晴らしい質。

 

私はスケーティングに関しては、今まで見たなかではパトさんが一番だと思っていたのだけど、今の羽生君のスケーティングは勝るとも劣らない。

(ジャンプ、スピン、ステップ、カリスマ性は羽生君が歴代で1番だと思うけど、スケーティングだけはパトさんかなと、ずっと思っていたもので・・)

 

羽生君のスケートの進化は随所に見られるのだけど、実はスケーティングに顕著だと思っている。

羽生君のスケーティングは、ずっと、少しずつ少しずつ、たゆむことなく向上している。

それは現在進行形で、「僕のこと」ではそのスピードと切れ味が最高潮に達していると思う。

 

そして、この「序奏とロンド・カプリチオーソ」。

 

一分の隙もなく、研ぎ澄まされた演技。

 

私は「バラ1」落ちなので、「バラ1」に愛着があるのだけど、この「ロンカプ」はあの「バラ1」よりも数段進化している。

 

フィギュアスケートのショートプログラムとして、最高到達点にある演技。

 

去年の24時間テレビの演技に酔いしれながら、今年の24時間テレビを夢想する。

 

羽生君の最新のスケートを見るのが楽しみでならない。

今頃も一生懸命に練習しているのかなと思いながら、楽しみに待つ夏の夜。

表現者とファンの関係について、考えてみた。

ファンといっても、100人いれば100通りの受け取り方、感じ方があるけど、今回は総体としてのファンを考えてみた。

ファンというのは、受信者であり、共感者であり、さらに増幅させる者なのかもしれない。

まずは受信者としての側面。

表現者がつくりあげたものを目にしたり、耳にしたとき、それを素晴らしいものとして受信した人がファンになる。
なにを受け取るかというのは、受け手によって違うが、とても深い部分まで理解して受け取る人がいる。

羽生君のスケートの場合は、ファンの数がとても多いし、それぞれのファンの人生観や人生経験も様々なので、とても深いところまで受け取る人がいる。
それは、家族や友人、ときには本人すら認識していなかった部分まで受け取っていることもあるかもしれない。
(人間は自分で認識しているのは一部で、海面下の氷山のように、意識にのぼっていない部分が多くあるらしいので)

これが、ファンが多いことの醍醐味かもしれない。
同じスケートを見ても、感じること、受け取ることが人によって千差万別で、受け手が多い分、広がりと深みがでる。

私は、羽生君ファンの方のブログを読むのが好きだ。
「こんな捉え方があるのか」「素敵な感想だな」と、捉え方の広がりと深みを感じることができる。

そして共感者としての側面。

その表現者が好きだというとき、表現者が作品を通して発している心情に共感しているのだと思う。
表現にこめられた心が、自分の心の一部であると感じるときに、感動が生まれるのだと。

そして、増幅という一面。

表現者から受け取ったものは、受け手にとって、インスピレーションになる。
そしてそれを糧に、受け手は自分なりのものづくりをしたり、発信をしたり、周りの人に接したりする。

そのようにして、表現というのは、受け手によって増幅されて、ささやかかもしれないが、世に影響を広げるのかもしれない。

羽生君がファンを大切に思ってくれていると感じるとき、そんなことを考える。

とても楽しい番組で、30分間があっという間だった。

 

番組のセットが秀逸で、昭和風(なにせブラウン管テレビがある)の学生の下宿に集まってワイワイ話しているような、リラックスして話せる雰囲気だった。

見ているほうも、友人どうしの話を聞いているような感じで。

 

内容は、気になるトピックスが10個ぐらい出てきて、それらがあっという間に語られては過ぎ去っていく感じだった。

 

深いトピックスもあったので、それらを深掘った話も聞きたかったけど、30分という時間上、さらっと流れてしまったのは、もったいないぐらい。

どこかで長尺版を見たいと思ってしまうのは、「徹子の部屋」のテラサで、「その手があったか」と思ったからかも。

 

以下、気になったトピックス。

 

「プログラミング言語はJava」

 

大学でプログラミングも勉強していたのかなと。

大学の授業や卒論ですごく頑張っていた話が以前でていたけど、大学の授業って、色々な分野を学ぶことができて、やっぱり貴重だったんだなと。

 

星野さん「独りよがりのものを作ったらダメだな」 

羽生君「それが重くなって辛くなるんですけど」 

 

このやりとり、とても印象的だった。

もっと深く聞きたい部分、ナンバーワンだった。

 

人に見てもらうものを作るときというのは、自分の世界に深く入り込む必要があるし、それと同時に独りよがりになってもいけない。

その両方を高いレベルで両立し、バランスをとる必要がある。

また、バランスをとるだけでは響かない。

そのあたり、星野さんも羽生君も表現者として模索しているのかなと、興味深かった。

 

羽生君はフィギュアの演技、星野さんは音楽を通して解放される「闇」があるという話。

 

羽生君はスケート、星野さんは音楽を通してしか、解放されないものがあるのかなと思った。

また、スケートでしか解放できないものを解放しているからこそ、リアリティがあって引き込まれるのかなと。

 

また、星野さんに「闇」のことを聞くときの羽生君の真剣な表情も印象的だった。

せっかく会えたのだから、大好きな星野さんに音楽のことや表現のことを聞きたいという、あくなき探究心。

 

この番組は、お三方のかけあい、通じ合い、テンポが心地よかった。

次回の放送も、とても楽しみだ。