木漏れ日の海 -26ページ目

木漏れ日の海

フィギュアスケートの羽生選手を応援しています。
プログラムの感想を中心に語ります。

『RE_PRAY』という、なんとも不思議なタイトル。

 

ゲームを何度もプレイするという「replay」がもとになりつつ、スペルは「pray」。

すなわち、「繰り返し祈る」という意味になるのだろうか。

 

そして、公式サイトにあった羽生君の言葉。

 

「たった一回しかない命、繰り返しできるゲーム、相反している二つの中で、それぞれでしか見つけられない大切なことがたくさんあると思っています。」

 

とても印象的な言葉だ。

 

「それぞれでしか見つけられない大切なこと。」

これを自分なりに考えてみた。

 

私は読書が趣味だけど、本を読むというのは、色々な人の人生を繰り返し追体験しているようなものでもある。

 

小説では、主人公の体験や人生をなぞる。

 

そして、ノンフィクションでも実に多くの人生に出会う。

歴史書はもちろん、エッセイや科学的な本でも、色々な人の人生や体験が語られる。

 

多くの本が、その中身は「誰かの人生の物語」なのだ。

 

本を読むというのは、ゲームをすることと似ている部分もあるように思う。

おそらく、ゲームというのも、色々な人生の物語を体験する行為なのだろう。

 

人はなぜ、こんなにも物語を求めるのだろうかと、常々、不思議に思っていた。

なぜ、他者の人生の物語を、いくつもいくつも、繰り返し聞きたがるのだろうと。

 

そんななかで、今回の羽生君の言葉は、とても示唆に富んでいた。

 

「たった一回しかない命」。

その中でしか見つけられない大切なことがある。

これは、分かる。

 

そして、「繰り返しできるゲーム」の中でしか見つけられない大切なこともあると、羽生君はいう。

 

これが、私にとっては発見だった。

色々な人の人生の物語を聞きたがるというのは、そこでしか見つけられない大切なことがあるからなのだと。

だからこそ、こんなにも物語を求めるのだと。

 

そして、「相反している二つ」という言葉。

これは、一度しかない人生と、何度もプレイできるゲームを指すのだろう。

 

一度しかない自分の人生という主観的なものと、何度もプレイできるゲームという多少客観的なもの。

 

ゲームをしているときは、その世界に入ってキャラクターと同化しているけど、それは自分の人生ではない。

本を読んでいるときも同じで、読んでいるときは主人公の人生を疑似体験するけど、自分の人生ではない。

 

それでも、「自分の人生ではない体験」を繰り返すことを、人は求めている。

そういった他者の人生の物語、他者の視点でもってものを見ることが必要なのかもしれない。

 

『RE_PRAY』もまた、受け取る人によって様々な解釈を可能にする、器の大きい「ICE STORY」になるのだろう。

待望の単独公演が発表された。

様々な期待がふくらむ。

 

まずは、たまアリ。

 

同僚がたまアリで開催されたバンプオブチキンさんのライブに行ったと聞いて、ひそかに羽生君の次の単独公演がたまアリであればいいなと願っていた。

 

理由は、箱の大きさ。

 

あの大きな会場が満員になったときの迫力は圧巻。

満員の観客の前で滑る羽生君の姿を思い浮かべると、それがこんなに似合う人はいないと思う。

 

大きな箱に大勢の観客。

その視線を一身に集めて披露されるスケート。

 

羽生君のスケートには、それだけのスケールがあるから、そういったシチュエーションこそがふさわしいと思われる。

 

また、たまアリなら試合サイズのリンクが張れる。

羽生君の、のびやかなスケートと飛距離のあるジャンプは、大きなリンクでこそ真価を発揮する。

 

そして嬉しいのは、今回もMIKIKO先生が演出ということ。

インタビューで「もっとすごいことができる」(言葉がうろ覚えだけど・・)と言ってらしたので、期待がふくらむ。

 

羽生君とMIKIKO先生は、いったいどんな世界を創り上げるのだろう。

全公演を通して、「RE_PRAY」という、新たな世界観が提示されることが予想される。

それは確実に、いまだかつて見たことがないものになるだろう。

 

そして、羽生君。

そのスケートも、世界観も、哲学も、魂も、まだ見ぬ境地を目指して進み続ける。

 

2か月後にベールを脱ぐその日が、とても楽しみだ。

メンシプに練習動画がきた。

 

最新の羽生君のスケートということで喜びつつ、何気ない練習動画だと思って、まったり見ていた。

 

ところが、4回転とか、4回転-3回転のコンビネーションをバンバン跳んでくる。

ひょっとして、すごい動画なんじゃないかと。

 

そう思いつつ、ツイッターで皆さんのコメントを見てみると、全種類のジャンプを跳んでいることが判明。

しかも、ノーカットでノーミス。

 

極めつけは4Lo-3Aという超絶技巧コンボ。

 

やっぱり、羽生君は、普通のものはあげてこない。

それでこそ羽生結弦。

 

今回は振付が全く入らないので、自然と目がスケートを滑る足元に吸い寄せられた。

 

ジャンプに入るまでの滑りと動作が自然で、力みが感じられない。

さらっと難しいジャンプを跳ぶ。

 

この技術があるからこそ、プログラムの中でジャンプが跳べるのだ。

 

それにしても、振付のない滑りを見ていると、プログラムというのは、振付あり、ステップあり、ジャンプあり、表現ありで、同時にたくさんのすごいことをしているのだなと改めて思った。

 

その珠玉の数分間を支えているのが、こういった毎日の練習なのだなと。

 

とても貴重なものを見せてもらえたことに感謝。

「おげんさんのサブスク堂・後編」では、プロになってからの話がでた。

 

おげんさんの質問。

 

「競技の時と、今のプロのやり方はまた全然変わってきた?」

 

羽生君の言葉。

 

「ちがいますね。競技時代というのは成績さえ残せば、たとえ、周りの方々からちょっとしたミスをおかしたとしても、僕がちゃんと成績さえ残せば、みんなが報われると思ってたんですけど。だんだん、こうやってプロになって、演出をしてくださる方々や照明や運営、いろんな方々がいる中で、そこに、頼り切ることができるようになりました」

 

プロになってからは、競技時代とはまた違うプレッシャーや責任があったことと思う。

単独公演での責任の重さは、計り知れない。

 

スケーターは羽生君1人で、公演のために大勢の人と巨額の資金が動き、ファンは会場やライビュのチケットを買って楽しみにしている。

羽生君が滑れなかったり、途中で滑れなくなった場合のダメージや損失は、あまりにも大きい。

 

競技時代は、羽生君が滑れなくても大会は開催された。

しかし、プロの単独公演では、羽生君が滑れないとなると、全てがキャンセルになる。

 

そう考えると、何をやるかという中身も考えなくてはならないし、滑りきるための準備も万端にしなくてはならない単独公演というのは、すさまじいプレッシャーだったのだと、今さらながらに震える。

 

そんな中で起こった、「GIFT」前日のアクシデント。

羽生君の口から語られた。

 

「東京ドーム公演の時に、前日に初めて通しリハができたんですけど、後半に行き着く前に、腰を痛めてしまって。動けなくもあったんですよ、すでに。その瞬間に“あ、終わったな”って、思ったんですけど。」

 

「1番難しいパートをやれなくて、後半は本当にぶっつけで。」

 

「ある意味で、信頼しきれていたからこそ、できたことでもあるのかなと。僕の演技を素材として、羽生結弦というコンテンツの素材として、まぁ最上級のものを頑張ればいいや。あとは、他のことは、みんなもう、信頼できる方々がいらっしゃるから、それはそこで任せれば、いい作品ができるなって」

 

あの東京ドーム公演は、こうして成し遂げられたのだなと。

制作総指揮は羽生君だけど、演出や音楽、照明など、任せる部分は、信頼して完全に任せる。

そうすることによって、最後は自分のスケートに集中する。

それがプロとしての強さなのかもしれない。

「おげんさんのサブスク堂・後編」で、羽生君の勝負曲が紹介された。

 

「僕の声」

 

”待ってたんだよ”という言葉で始まる歌詞。

羽生君は、この曲を聴いていた平昌オリンピックをこう振り返る。

 

「ケガ明け、ぶっつけ本番だった平昌オリンピックのとき、観客の”待ってた”と言わんばかりの歓声がいまだに残っている。」

 

「僕自身も“頑張れ”って言われているけれども、僕もこの曲を聴きながら演技をして、色々な方々に頑張れっていう気持ちを届けたいなということもあって、いろんな意味で勝負曲です」

 

羽生君は試合のときでも、観客の声をよく聞いているし、観客の期待や反応を感じ取っていたのだなと思った。

 

自分のなかだけに閉じるのではなく、観客の応援を感じて、自分からも見る人に応援を届けるという、相互作用。

それがあるからこそ、見ている方は、こんなにも引きつけられるのかもしれない。

 

豊豊さんの言葉。

 

「闇と孤独と世間と世界の期待とそれに応える、ゆづ一人。すごいね。」

「結局さ、一人でやってるからさ、チームプレーじゃないからさ。やっぱり、いろんな人が、全部ゆづ一人っていう風に見てくれるという。そこを抱えているのは、幸せな部分と、すごくそれによって追い詰められる部分ってあるよね」

 

それに応える羽生君の言葉。

 

「そうですね。やっぱり、演技が上手くいかなくてしんどいとか辛いとかはもちろんあるし、結果も出なくて辛いことはあったんですけど、何が辛いって、やっぱり誰かが自分のために色んなサポートをしてくださっている方々がいらっしゃって、それが完全に無に記すという瞬間。もう、辛くて、辛くてしょうがなかったですね。」

 

「だから、その期待を裏切りたくないっていう気持ちがずっと根底にあって、なんとなく動かされているのかなと、自分の中では分析はしていますね」

 

競技時代、試合に向かうときの羽生君の強さは驚異的だった。

それは単に試合に勝つという意味ではなくて、試合に向かうときの集中力や、強い意志、やりきる力の強さ。

 

フィギュアスケートは、ある意味では、とても過酷な競技だと思う。

 

豊豊さんの言う通り、チームでやる競技ではない。

たった1人で、あの広いスケートリンクに出ていき、満場の観客とテレビで見つめる何百万人という人の期待を背負って演技をする。

 

たった3分から4分間の演技に、それまで練習してきた全てをこめなくてはならない。

 

また、高難度ジャンプが詰め込まれたプログラムであればあるほど、全てのジャンプが完璧には決まらない。

いくつかのジャンプを失敗しても、自分で立て直しながら演技を続けなければならない。

 

そんな過酷な競技のなかで、羽生君が見せる強さは、すさまじかった。

 

なぜ、羽生君はこんなにも強いのだろうと、常々、不思議に思っていた。

 

天性の闘争心なのか、と思っていた時もある。

 

だけど、今回の話をきいて、それだけではないのだと、改めて思った。

 

羽生君は見ている人の期待や、自分からの応援の気持ち、そしてサポートしてくれる人たちの気持ち、色々なものを感じて受け取っているからこそ、生まれた「強さ」だったのだなと。

 

色々なことを受け止めて、考えているからこその「強さ」。

本当の「強さ」とは、そういうものなのかもしれないと思った。