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木漏れ日の海

フィギュアスケートの羽生選手を応援しています。
プログラムの感想を中心に語ります。

「RE_PRAY」のスケートを繰り返し見ている。

 

最初のプログラム「いつか終わる夢-original-」の次に来るのが、新プロ「鶏と蛇と豚」。

 

このプログラムが持つ世界観は、今までのどのプログラムとも違うと思った。

 

今までも多少ダークなイメージであったり、苦悩を感じさせるプログラムはあったけど、どこか等身大の羽生君を感じさせるところがあった。

 

ところが、「鶏と蛇と豚」は完全に作品として屹立しているような気がする。

 

このプログラムで演じているのは、まったく抽象的な概念・存在といったもの。

完全にその概念・存在になりきっている、演じ切っているように思えた。

 

歌詞は、むさぼるけど満たされない、毒なのか、といった内容で、欲望・煩悩といったものがテーマのようである。

(曲の歌詞自体が深く、一筋縄ではいかないが)

 

だけど、このプログラムから受けるイメージはなんだか、美しいのである。

まがまがしさがないというか。

 

現地で見たライティングは、赤が印象的だった。

業を表す業火なの中にあるのかもしれない。

 

だけど、このプログラムから受けるイメージは、どこか荘厳でもあって。

 

これは、ひょっとしたら羽生君がもつ個性なのかもしれない。

たとえ魔王や背徳を演じていても、邪悪さ・まがまがしさを感じさせない。

逆に美しくて荘厳な迫力をまとう。

 

それがあるから、安心して魅了されることができるのかもしれない。

 

また、このプログラムは楽曲も素晴らしいと思う。

楽曲自体が持つ世界観があり、曲の完成度も高い。

 

椎名林檎さんの曲。

若いころ、友人が椎名林檎さんの曲が好きで、よくカラオケで歌っていた。

椎名林檎さんの曲は当時から独特の世界観を持っていたけど、この「鶏と蛇と豚」は椎名さん独特の世界観を持ちつつ、洗練されている。

 

そして、この曲がなんとも、羽生君のスケートに合う。

背徳的なテーマを歌っているのだけど、洗練されていて品がある。

楽曲としての完成度も高い。

そして、個性的なスパイスが効いていて、独自の世界観を持つ。

 

そうでありつつ、このプログラムのための曲であるかと見まごうほど、羽生君のスケートにマッチしている。

素晴らしい選曲、振付、衣装、そしてスケート。

 

このプログラムに魅了されて、何度もリピートしている。

メンシプに2本の動画がアップされた。

 

その時間はちょうどパソコンを見ていたので、ほぼリアルタイムでお知らせが来た。

時計を見たら、0:39。

 

最初に「アクアの旅路」を見た。

 

ある方がネットで「羽生君の第一言語はスケート」と書いていたけど、本当にそうだなと思った。

羽生君は日本語の表現力もとても優れているけど、スケートの表現力は、それをさらに超えてくる。

 

言葉にならない言葉が聞こえてくるかのよう。

 

「言葉」として発した場合は内容や意味合いがかなり限定されるけど、「スケート」として発すると、大きな広がりと奥行きを感じさせる。

 

そして、見る側にも、かなりの部分がゆだねられる。

だからこそ何度も見たくなるし、見る度に受け取るものが違ったり深化したりする。

 

表現するとは、伝えること。

人間は様々な手段で表現してきた。

 

言葉、絵、舞踏、音楽。

芸術と言われているものは、人間にとって、心を伝える手段だった。

 

これらの中に「羽生結弦のスケート」というものが新しく生まれて、今、多くのものを表現し、その心が伝わってくる。

 

最初はてっきり、「アクアの旅路」1本だと思っていたけど、もう1本動画がアップされていることに気付いた。

 

「Goliath」

 

陸ダンスの動画が先に公開されていて、氷上ではいったいどんなプログラムになるのだろうとワクワクしていたけど、想像のはるか上だった。

 

髄所に今までにスケートでは見たことがない動きが散りばめられている。

 

ジャンプの直後に飛び上がる動き、ハイドロの途中でエッジをつかむ動き、途中で大きく姿勢が変わるスピン。

 

そして極めつけは氷上に置いてあるカメラに向かってダイブ。

この映像表現がすごい。

 

羽生君のダイブによって蹴散らされた5つのカメラの映像が画面上に表れる。

1つのカメラは、蹴散らされた勢いのままグルグルと回り続けている。

 

それはまるで、砕け散ったものの視点から見える世界。

砕いた側と、砕け散った側。

両方の視点が同時に存在するかのよう。

 

とても意味深だし、斬新なアイデアだと思う。

 

羽生君がプロになってからつくづく驚いているのは、その湧き出るアイデアのすごさ。

 

単独ショーでも、新プログラムでも、次々と新しいものを生み出している。

 

競技時代も独自のプログラム世界を創り上げていたけど、プロになってからその「創造力」がさらに開放されて、すごいことになっている。

 

メンシプでスケートを見せてくれたことが嬉しい。

その素晴らしいスケートに感謝を込めて。

夜、そろそろ寝ようかなというときに、その知らせを目にした。

 

そして、ぐるぐる考えて、眠れなくなってしまった・・。

 

なぜ、こんなことが起こってしまったのか。

どうにもならなかったのか。

何をすべきだったのか。

 

私は羽生君のスケートが心底好きで、こうしてブログにあれこれと感想を書いている。

羽生君自身のことを敬愛している、ファンだ。

 

今回の結婚について勝手に思ったのは、勇気ある決断だし、その決断を応援したいということ。

 

自分の経験に勝手にあてはめると、結婚したくなる時というのがやってきたら飛び込むのが、自然なことだと思う。

なので、羽生君が結婚したいと思ったときに、そこに飛び込んでくれたことを嬉しく感じていた。

 

お相手のことも、イチファンの勝手な思いとして、応援していた。

よくぞ決断をしてくれたと。

羽生君と幸せになってほしいし、勝手なファンの思いとして、羽生君のことを幸せにしてほしいと。

 

そして、たまアリでは羽生君のスケートが大好きという気持ちを届けたいと思っていた。

会場はあたたかく、熱気に包まれていて、「RE_PRAY」が成功したことを嬉しく思っていた。

 

ファンの方々の中では動揺する方もあったようだし、それはそれぞれの気持ちなので、色々あっても、あるよね、と思っていた。

人を傷つけない限りは、それぞれの気持ちを大切にできるといいと思っていた。

 

一部のマスコミがプライバシーの侵害を繰り返していることは知っていた。

おそらく、張り付かれて大変なことになっているだろうことも。

勝手に人のプライバシーを憶測で書いて、犯罪ではないのかと思っていたけど、今に始まったことではないと思いスルーするのみで、何もしなかった。

 

「誰もが罪ある存在かもしれない」というのは、個人的にずっと思ってきたことで、今回のことについても、自分も加害者もしくは、何もしなかった、傍観していたという罪があるのかもしれないと思う。

 

世の中や生態系は全てがつながって関係しあっているので、ひどいことが起こったときに全く罪のない存在はいないのではないかという考えがいつもよぎる(もちろん、子供には罪はない。成人している社会人の1人として、ということ)。

 

そう考えると、羽生君とお相手が傷ついたことに対して、ファンとしてどうしたらいいのか、途方に暮れる。

 

応援していいのか。(そのスケートを応援したい)

 

見に行っていいのか。(見に行きたい)

 

ブログを書いていいのか。(感想を書きたい)

 

どこまでが罪で、どこからが罪でないのか。

なかなか線引きできない問題に突き当たってしまった。

 

それでも、羽生君のスケートが大好きだという気持ちは変わらないし、羽生君が滑り続ける限りは応援したいし、そのスケートを見たいと思う。

「RE_PRAY」の録画を、また通しで見てしまった。

 

私は基本的に、同じ作品を何度も見るということはしない。

大好きな読書でも、同じ作品を読むことは、ほとんどない。

 

読むべきもの、読みたいものはいくらでもあるので、同じものを読むのは時間がもったいないと思ってしまうのだ。

(よっぽど気に入っている本だけ、老後に読み返そうともくろんでいる)

 

それなのに、羽生君のスケートだけは、何度も見てしまう。

 

何度見ても発見があるし、何度見ても感動する。

おおよそ「飽きる」ということがない。

 

自分は基本的に知識や感動というものに対して貪欲なので、新たな知識や感動をいつも求めてしまう。

なので、次々と新しい本を読もうとする。

 

だけど、羽生君のスケートは本当に不思議で、何度見ても新たな感動に出会う。

汲めども尽きぬ泉のよう。

 

その深さ、豊かさには果てがないような気がしてしまう。

 

今回、「RE_PRAY」を通しで見て、つくづく、そう思った。

 

「RE_PRAY」では12のプログラムが滑られるのだけど、1つ1つのプログラムが持つ精神性に圧倒される。

 

どのプログラムをとっても、平板ということがない。

1つのプログラムに込められた感情があまりにも豊潤。

 

「RE_PRAY」ではそんなプログラムたちが次々とやってくるので、ひたすら魅入ってしまう。

 

なんとすごいものを創り上げたのか。

「『職業 羽生結弦』の矜持」を見た後だけに、つくづくそう思う。

(最近、羽生君には圧倒されっぱなしだ)

「RE_PRAY」の録画を通しで見た。

個人的な感想と考察を書いてみたい。

 

全体を通しで見ると、前半と後半ではっきりと物語が分かれている(分岐している)と思った。

 

鍵となるのは、「いつか終わる夢」。

 

「RE_PRAY」全体には一貫したテーマが底を流れているように思う。

 

それは、日本人として、人間として生まれてきて、生きることにまつわる業のようなもの。

誰もが罪ある存在かもしれないという問いかけ。

生きることに付随する欲望、罪、業。

あやつっているのかもしれないし、あやつられているのかもしれない。

踏みつけているのかもしれないし、踏みつけられているのかもしれない。

 

そんな状況に対して、受け入れたり、むさぼったり、怒ったりしながら、闘うことを選択するのが前半。

 

闘うことの悲しみを感じながらも、闘うことを選ぶ、あるいは選ばされる。

 

勝利をおさめたかに思った瞬間、セーブに失敗する。

今までの闘いが無に帰したのだろうか。

疑問に対する答えが出ないままに前半が終了する。

 

そして、後半。

前半と同じデータが呼び出されて、プレイが始まる。

 

ここで来たのが、「いつか終わる夢;RE」。

 

前半冒頭と同じプログラムでありながら、全く違う決意を描く。

 

このプログラムが持つ世界観は、最後の「春よ、来い」につながるように思えた。

まるで、「春よ、来い」へ至る道を選ぶという、強い決意を秘めているかのように。

 

前半最初の「いつか終わる夢-original-」と同じプログラムでありながら、全く違う道を選ぶことを宣言するかのように、全く違う世界を描く。

 

抱える業は前半に問題提起されたものと同じで、変わることはないけれど、受け入れ方や対処の仕方が変わる。

前半の闘いの経験を踏まえて、なのかもしれない。

 

次は違う道を行くという決意。

 

その道は、「天と地のレクイエム」「あの夏へ」をへて、「春よ、来い」につながる道。

 

では前半と比べて、どう違う道なのか。

それが難しくて、まだ分からない。

 

受容なのか、あきらめなのか、献身なのか、祈りなのか、希望なのか。

 

後半のプログラムたちが描く世界というのも、とても複雑で、ひとことで「こういう道」とは言えないような気がする。

ただ言えるのは、この道を選んで歩いていこうという決意があるということ。

 

この物語は終わったのではなく、現在進行形のような気がする。

 

「RE_PRAY」と、そこで滑られたプログラムたちが提示する世界観やテーマは、とても豊潤で複雑で深いと思う。

 

それだけに、見る人の分だけ、違う受け取り方があるだろうし、見る度に感じることが変わるのかもしれない。