木漏れ日の海 -17ページ目

木漏れ日の海

フィギュアスケートの羽生選手を応援しています。
プログラムの感想を中心に語ります。

インスタとXに羽生君の言葉が来た。

 

嘘や妄想を、さも本当のことのように書いて世の中に拡散してきた一部メディア。

 

「10代の頃からずっと」という言葉は、とても重い。

 

まだ未成年であった10代のころから、そして今現在に至るまで10年以上もの間、悪意ある「嘘」を書かれ続けてきた。

 

なぜ、そんなことがまかり通るのだろう。

 

暴力によって人を傷つけたら、それは「犯罪」になって、法律で罰される。

 

ところが、「言葉」によって人の心や尊厳を傷つけた場合は、なかなか裁かれない。

たとえ裁判で裁かれたとしても、慰謝料を含めて、裁かれた側のダメージは少ない。

 

「傷つけた」という結果は同じで、明らかに「罪」なのに。

 

そして、「罰されない」から「やってもいい」となっているのが今の日本。

道徳的、道義的に考えたら明らかにおかしいのに、それがまかり通っている。

 

「嘘」で人を傷つけるという、明らかな「罪」が罰されない。

そして、罰されないから「やってもいい」として、やり続ける一部メディア。

それを是正できない社会。

大人として、その一員である自分。

 

どうすればよいのか、途方に暮れるけど、スルーはできないと思った。

 

せめて、「嘘」を拡散することには「ノー」と言いたい。

それは「罪」であると。

人として、やってはいけないことであると。

羽生君のスケートや生き様を見ていると、「美しいな」と感じることが多い。

 

「美」を感じるのはなぜなのかと考えてみると、それは「憧れ」が根底にあるのかもしれない。

 

羽生君のスケートの中には、自分が憧れている、すなわち「こうありたい」と思う要素がたくさん含まれているのだろう。

 

例えば、

 

燃えるような生命力

強い意志

他者のための祈り

悲しみを包み込む慈愛

飽くなき挑戦

最高のものを見てもらうための追及

 

そういったものがスケートの中に見える度に「美しい」と感じ、魅了される。

 

ありったけのものが込められているスケート。

そこに込められた思い、願い、技術、精神。

本当に、美しいと思う。

羽生君の構想の中で、未来の人にも自分のスケートを見てほしいというのがあると知って、驚いた。

 

そこまでの構想があったなんて。

 

ある意味、表現としては究極の目標だと思う。

長い時を超えて、はるかな未来の人に見てもらうというのは。

 

でも、考えてみれば、表現や芸術というものには、その可能性があることに気付く。

 

たとえば、「源氏物語」。

1000年前に書かれた物語だけど、リアリティをもって迫ってくる。

昔の人の物語ではなく、「私たちの物語」と感じる。

 

源氏物語にでてくる女君たちの気持ちが伝わってくるし、光源氏がたどる道にリアリティを感じて、夢中になって読んでしまう。

 

源氏物語は1000年の時を超えて未来に伝わってきた物語。

1000年間の間、新たな読者を得て、読者を感動させ続けてきた。

そして、日本人と現在の文明が健在である限り、この先の未来にも多くの読者を獲得していくだろう。

 

そう考えると、羽生君のスケートも、そうなる可能性が十分にあることに気付く。

 

たとえば今から100年後の2123年を夢想する。

そのとき、羽生君のスケート映像を見た人は、どう感じるのだろう。

やはり、その美しさに心打たれるのではないだろうか。

 

それが美しく、心に響くものである以上、いつの作品かというのは、あまり関係ないのかもしれない。

たとえずっと昔に作られた作品でも、美しいものは美しいし、感動するものは感動する。

 

そして、そこに真実が宿っている場合、昔の人のための作品ではなく、「私たちの作品」と感じることができる。

 

そういうふうにして、未来の人たちに愛されるスケート。

愛されるプログラムたち。

 

羽生君のスケートには、それだけの魅力があると思う。

そして、それをリアルタイムで、しかも運が良いときは生で見られるというのは、やはりすごく幸せなことだと思う。

「RE_PRAY」たまアリ、2日目の放送を頭から見ようと思ったのだけど、2曲目の「鶏と蛇と豚」を何度もリピートしてしまって、その先に進めなかった。

 

「鶏と蛇と豚」は革新的なプログラムだと思う。

 

まず、般若心教から始まる曲。

そして、逆光の中、白い光の中から羽生君が登場する。

 

リンク上には赤いライトがビームのように走って、ランウェイのような、縦長の舞台を作り上げる。

 

この赤で囲まれた縦長の舞台が、なんとも神聖な場に見える。

このとき、リンク上には高いところから白い柱のような照明が等間隔に降りている。

それはまるで、神殿や寺院の柱のようで、荘厳な世界を作り出す。

 

本来、この曲の歌詞は「欲望や業」というものを歌っているのだけど、ある種、神聖な雰囲気をまとっているように見えるのだ。

 

その舞台は、赤い柱に囲まれてまっすぐに伸びる厳島神社の廻廊のよう。

 

そして、その廻廊の中で羽生君が舞う。

最初はずっとこの細長い舞台から出ないのだけど、ついにその舞台を飛び出して滑る。

 

一気に飛び出して、スピードにのった滑り、そしてイナバウアー。

 

そうかと思うと、廻廊に戻って、ピタッと止まる。

(この止まり方がすごい。こんなにブレることなく止まれるとは)

 

そして廻廊をまっすぐに滑ってきたかと思うと、ショートサイドにしつらえられた小さな舞台に上がる。

舞台の上での鬼気迫る表現。

 

そして、曲が終わって戻っていく後ろ姿まで美しい。

 

このプログラムは、今までのフィギュアスケートの概念を超えている。

 

例えば、フィギュアスケートは基本的に滑り続けるものである。

だけど、このプログラムではスピードにのったスケーティングというのは、廻廊を飛び出したわずかな間のみ。

また、ピタッと廻廊に戻る。

 

例えば、フィギュアスケートはリンクをまんべんなく使うものである。

だけど、このプログラムはリンクにまっすぐに伸びた廻廊の中で多くの時間が経過する。

 

そして、ジャンプもスピンもない。

 

それなのに、こんなにも魅せる。

 

選曲、演出、舞台装置。

 

それらがピタッとあわさって、羽生君のスケートとマッチして、極上のプログラムとなる。

 

これはMIKIKO先生の演出によるものだろう。(選曲はどなただろう?)

 

羽生君とMIKIKO先生。

2人の才能がぶつかり合って、素晴らしいプログラムが生まれたのだと、ほれぼれとする。

「RE_PRAY」たまアリ2日目の放送を再び、通しで見た。

 

放送で見ると、初日とはだいぶ印象が違う。

羽生君の表情と動きをつぶさに見ることができるからだろう。

 

2日目は、真に迫ってくる迫力がある。

まるで、リアルな魂の旅路を見ているかのよう。

 

約2時間の公演だけど、随分と長い魂の旅を一緒にしたような気分になる。

 

1つ1つのプログラムがつながって、1つの道を歩んでいっているような。

ぶつかったり、つまずいたり、傷ついたりしながら、何かを求めているような。

 

そして、その求めているものが、個人のための感傷や希求では決してない。

まさに「PRAY」、「祈り」で、多くの人が、多くの人のために祈っているような、そんなイメージが浮かんでくる。

 

滑っているのは羽生君だけど、そこで描かれるのは、個人というよりはもっと抽象的な、人間の持つ普遍性のようなもので。

 

以前、羽生君が自分のことを「媒体」と言っていたけど、その意味が少しだけ分かるような、そんな滑りだった。