塔の作家・小津安二郎 その16 「浮草物語」④ | トトやんのすべて

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猫写真。
ブンガク。
および諸芸術作品への偉そうな評論をつづっていくブログです。

毎回毎回、「浮草物語」もしくは「浮草」をみるたびに

疑問に思うのは――

 

なぜ、あれほど坂本武は激怒するのか?

(なぜ、あれほど中村鴈治郎は激怒するのか?)

ということで……

 

大雨の中の怒鳴り合いの、あのシーンではなく、

 

信吉&おとき(三井秀男&坪内美子)のカップルの姿を

喜八(坂本武)が目撃しちゃいました、

さてどうなる?

というあの場面です。

 

S73 小屋の露地

喜八、ひょいと前方を見て「あれ?」と立ち止る。

 

S74 向うの道

信吉とおときが肩をならべて帰って来る。

(見た目)喜八「うーむ」と唸って目をみはる。

飛び出さんとしたが、そのままかくれて尚も見張る。

 

というんですけど↓↓

別にこの二人 べたべたくっついてイチャイチャというんじゃないんですよね。

1930年代。今より男女のことは口やかましかったんでしょうが。

これで↓↓ どうこういわれてもねえ……

 

ただ……これも暗号の「平行」(=)なのでしょう。

 

S64で おときに関して

「ここんとこ ちょいちょい 見えなくなるんですよ」

というやりとりがあり……

S71で 信吉に関して

「此の四、五日毎晩の様に、出かけるんだよ」

というやりとりがあり……

(シナリオ上の「平行」)

 

そして。この 三井秀男&坪内美子の

画面上の「平行」の出現。ということなのでしょう。

 

で。喜八には答え(=二人はデキている)

が、わかってしまったわけですが。

 

くりかえしますけど、この二人。

そうイチャイチャしてるわけではない。

ただの友達同士ですよ。と言い訳ができるレベルなのです↓↓

 

それは戦後の――四半世紀後の「浮草」(1959)でも事情は同じでして……

 

S94 小屋の近く

駒十郎、来かかって、ふと見て、おや? と目を据える。

向うの角で、加代と清が別れを惜しんでいる。

 

というんですが……

 

あれほど チューチュー キスばっかりしていた

川口浩&若尾文子たんですが……

 

なんとも礼儀正しい。

ぴっちり「平行」(=)なんですな。

 

ちょっと、シャツのゴミかなんかを文子たんがとるというアクションはありますが↓↓

それでも 「あやしい……」というほどではない。

 

にもかかわらず 顔色を変えちゃうのですな。

鴈治郎さん。

 

――にしても、顔の形。真四角ですな。

 

平行線の二人。

恋人同士の間合いではないです。

言い訳しようとおもえば言い訳できる感じ。

 

戦後の「浮草」の暗号も「平行」なのか、どうか?

そこまで細かくはみてないんですけど。

このシーンをみるかぎり、たぶんそうなのかな。

 

こういう器用なお芝居は 坂本武にはムリ……↓↓

 

しかし。ここはどこ?

オープンセットですか? ロケ?

ご存知の方教えてください。

 

たぶん、オープンセットかな??

 

□□□□□□□□

もとい、戦前の「浮草物語」(1934)に戻ります。

 

S79 客席

ガランとして一隅に座布団がつみ重ねてある。

喜八、おときを前へ坐らせ、いきなり横つらを張る。

「やい!」

「手前ぇ、今まで

何処へ行って来やがった!」

おとき、顔をおさえ、反抗的に見返す。

無言である。

 

と、「全集」のシナリオにはあるのですが、

おときを坐らせてしまうと 視線が上下方向になってしまうので

プリントでは ご覧のように立ったままです。

あくまで視線は「水平」↓↓

(もちろん身長差はあるんですけど……

前作・前々作のように、人物Aを立たせて 人物Bを坐らせ

その人物A・人物Bのショットをカットバックすることがない、ということをいっています)

 

坪内美子たんに暴力をふるうなどとは

許しがたい行動ではありますが……

 

坂本武&三井秀男の親子の愛情を 「同性愛」とみるとすると――

嫉妬に狂った元・恋人坂本武が

現・恋人……しかも若くてかわいい坪内美子をぶん殴る、という

すこぶるおもしろいBLシーンにも見えてきます。

 

小津安っさん。

大げさな「お芝居」は要求しません。

殴られても無表情な坪内美子↓↓

 

この会話シーン。

 

たぶん……坂本武のほうが

顔は大きいはず。

 

なので、坪内美子を撮る時は

カメラ位置は被写体に近づけているんでしょうねえ。

 

それで各カットが自然に繋がっていく。

小津作品でよくみられるテクニックですが、この会話シーンはわかりやすい例。

 

もちろん視線が「水平」というのも

カット間が違和感なくつながる重要なポイントでしょう。

 

「おたかが、どうしたんだ?」

おとき、

「あの人を誘惑しろって言ったのよ」

喜八、「え?」と目をむく。せき込む。

と、おとき「でも……」と目をふせ、

「でも、今じゃ、お金でなしに

あたしが信ちゃんに夢中なのよ」

 

恋愛感情→手をゴニョニョさせるといういつものヤツです、はい↓↓

 

喜八(坂本武) おとき(坪内美子)に

「おたかを呼んでこい!」といいつけまして――

 

で、八雲姐さんの登場。

 

おたかが来て、喜八を見ている。

両人、殺気を以て、睨み合う。

 

――とシナリオはすさまじいことを書いてますが……

なるほど 斬り合いがはじまりそうな雰囲気です↓↓

 

「お前さんに似て立派な息子さんだよ

旅芸人を情婦(いろ)に持ってさ」

喜八、追いすがりざま、続けてなぐる。

おたか、なぐられたまま、笑い顔で、

「口惜しいかい」

「え、どうだい!」

「たんと口惜しがるがいいよ」

喜八、相手の落ち着いた様子に押される。

 

坂本武が八雲理恵子をぶん殴ります。

戦前の小津作品は、暴力シーンが多いですが、

ほとんどきまって 暴力をふるった側(ここでは坂本武の喜八)のほうが

精神的に敗北しているというか、

みじめというか……

 

――それだけに「戸田家の兄妹」のラスト近く

佐分利信の「正義の鉄拳」みたいのは どこか違和感がありますな。

 

ここも、いったん倒れた八雲理恵子を

そのまま坐らせておく手もあったとおもいますが、

睨みあう二人のカットバックは、

当然のように 視線が「水平」です。

 

つまり、八雲理恵子を立たせてから睨みあいがはじまります。

 

カメラ位置を変えて

顔の大きさをコントロールする、というのも

先ほどの坪内美子と同じ。

 

――というか、八雲理恵子、ものすごい美人。

手もキレイだし……

 

だが、美人だから女優として成功するわけではないようで……

彼女は 栗島すみ子にも田中絹代にもなれなかったわけです。

 

八雲姐さん、小津作品はこれで最後。

どんな声の人だったのかねえ。この人のトーキー出演作はみてないので知りません。

 

個人的にはこのセリフが一番好きかな。

 

「世の中は廻り持ちなんだよ

骨身にしみて、覚えとくがいいや」

 

「仲直りしておくれよ」

喜八「え?」と見返す。おたか、尚も、

「ねえ」とすがり、

「これで、あたしとお前さんとは

五分五分じゃないか」

 

五分五分というのも この作品のテーマ 「平行」だの「水平」だのと通じ合うものを感じます。

 

S87 客席

深刻な顔でじっと一方を見ている一座の人々。

(ゆるやかに移動)

 

・視線が同一方向

・移動撮影

そして場所が同じ「客席」ということで、

S28とみごとにパラレルになっています。

 

S28は賑やかなシーンだっただけに より悲壮感が漂います。

 

やがて、われわれは 一座の小道具類を売り払っている……

一座は解散するのだ、ということを思い知ります。

 

このあたり 月並みな作者だと 「え? 解散だって……」「親方、本当かい?」

なんていう野暮なセリフを言わせたりしそうですが、

無言のまま きわめてクールに処理しています。

 

そして  「カネ」という、この作品に終始つきまとうテーマがあらわれます。

ここは「若き日」の第七天国……質屋のシーンの再演でもありますな。

 

S88 楽屋

徳利がならんでいる。(移動)

茶碗酒に、するめ、一座の人々が車座になって別れの酒を飲んでいる。

皆、愁然としている。

 

車座になって歌うという……小津作品ではよくあるシーン。

「若き日」「東京の合唱」「浮草物語」……

 

だが、どの作品においても 悲しさをまぎらわすために歌うのだな。

この人たちは。

 

「浮草物語」の谷麗光が、なんだか好きです。

「出来ごころ」の床屋さん役もよかったが、

この映画の「とっさん」が漂わせる哀愁にはかなわない。

 

この人、いったいどういう人なのか?

調べようがないのだよな。

 

手持ちの松竹作品のDVDだと 「女医絹代先生」にこの人、出演してて

絹代ちゃんに片思いする金持ちのボンボン役、

主人公・佐分利信のライバルという、

けっこういい役をもらってるんだが……

 

「浮草物語」の「とっさん」みたいな輝きはない。

 

きちんと「フレーム」にはいっている谷麗光。

フレームなしだと、ちょっとお涙ちょうだいになってしまったかもしれない。

フレームが入ることで、客観的な……被写体を突き放した表現が生れる……のだろう。

 

登場人物が「同一方向」を向くショット↓↓

左端のヒト ぼやけちゃってるよ。

レンズの性能が悪そうだな……フィルムの問題かしら??

 

S90 座敷

両人、入って来る。

おつね、喜八の浮かぬ様子に、

「どうしたのさ?」

喜八「やれやれ」と荷物を投げ出す様において、

「とうとう一座、解散しちゃったよ」

とはき出す様に言って坐り込む。

 

一座にとって解散は悲劇ですが、

おつねにとっては、

喜八が定住してカタギになってくれるかもしれない、という吉報です……

 

いままでさんざん おとき(坪内美子) おたか(八雲恵美子)をぶん殴っていた喜八(坂本武)が、

おつね(飯田蝶子)の前では しんみりとして

まったく頭があがらない、という設定もおもしろいです。

 

・・・・・・・・・

あと思うのは 初期小津作品のシナリオの定番パターンで――

「良い子」

「悪い子」

この二人の女の間で、主人公が迷う、というのがあるわけですけど……

 

「朗らかに歩め」(1931) 「淑女と髭」(1931)では、

主人公は「良い子」を選ぶわけです。

(どちらの作品でも 良い子→川崎弘子 悪い子→伊達里子)

ところが、

「非常線の女」(1933)では

選ばれるのは「良い子」(水久保澄子)ではなく

「悪い子」(田中絹代)の方です。

 

――そして、この「浮草物語」(1934)

坂本武が選ぶのは 「良い子」(飯田蝶子)ではなく、 「悪い子」(八雲理恵子)なわけです。

まあ、二人とも「女の子」という年じゃないですけど。

 

「そのうちにはあの子もきっと

帰って来るよ」

「ねえ、そうすりゃ」

「親子三人で仲よく暮らそうよ」

「ね、そうしようよ」と頻りにすすめる。

 

二人の視線はとうぜん「水平」

 

シナリオの構造をみてみますと――

おもうのは……「三人」……「三」という数字を飯田蝶子は言ってはいけなかったのではないか?

「三」という禁じられたコトバを口にしてしまったから、

喜八は八雲理恵子を選んだのではないか?

 

つまり、

この作品は「平行線」(=)の映画なのです。

数字でいえば 「二」の映画なわけ。

 

「三」は、この作品からは排除されるのではあるまいか?

だからそのあと……

三井秀男&坪内美子が帰宅して、最後の一波乱が起きる。

 

喜八、おときを見ると、カッとなっていきなり

「こ、こん畜生……‼」

「何処へ行ってやがったんだ!」

「手前ぇ、どの面さげて

帰って来やがったんだ!」

と、横ビンタを張る。

 

と、また暴力シーン。

まず息子をぶん殴ればいいのに……

と、おもうが、

こうなるといよいよ 三井秀男&坂本武は「同性愛」だったのだとおもうより他ない。

 

さっきの「三」ではなくて「二」という理論でいいますと、

坂本武・飯田蝶子・三井秀男……この人たちは

坂本武&飯田蝶子(異性愛)

坂本武&三井秀男(同性愛)

この組み合わせでできていたわけで――

 

つまり、「三」人家族にはなりようがなかった三人なのではあるまいか。

あくまで 「二」+「二」でしかなかったのではあるまいか??

となると、坂本武が最後、八雲理恵子とくっつくのは必然だったわけです。

 

お。

なんか飯田蝶子を真正面からとらえたショット↓↓

小津作品でこんなのありましたかね??

 

カメラ位置、ローポジションじゃないよな。これは。

ちなみにキャメラの茂原さんは飯田蝶子のダンナ。

 

なんか、エイゼンシュテイン作品にでもありそうな雰囲気。

ブルジョワ富農の嫌がらせに抗議する貧しい農婦みたいな雰囲気(笑)

そして皆が立ち上がった! みたいな。

 

だが、小津ですのでね。

 

戦後の「浮草」の川口浩は――

「――そうか、やっぱり……そんなことやないかと思うとったんや……」(S115)

と口にするんですけど。

 

戦前の青少年はナイーブだったのか。

三井秀男は素直に驚きます。

 

「学があるだけに

あいつの言うのはもっともだよ」

「ふだん構いもしねえで勝手な時に

これが父親でござい

なんて言ったところで

通用しねえのが当たり前だ」

 

 

おつね、驚いて、

「信吉だって、お腹ん中じゃ

もう折れてるんだよ」

「ねえ、行かなくっても……」

喜八「いいや」と首を振って、

「でも、あいつに肩身のせまい思いを

させたくないからなあ」

 

喜八、「酉屋」」を出て行きます。

 

おもしろいのは、喜八がいなくなってから

「上下方向の視線の交錯」のカットバックが2回立て続けに発生することです。

 

物語の序盤S25 坂本武&三井秀男の会話で

上下方向の視線があって、それ以来、となります。

 

「上下方向の視線の交錯」をさいごのさいごまで

とっておいたということでしょうか?

 

S95 二階

信吉、泣きたいのをこらえて考えていたが、ハッとなって見る。

おときが顔を出して、

「信ちゃん……親方が……」

信吉、彼女をじっと見ていたが、やがて、サッと立ち上がると、部屋を飛び出す。

 

三井秀男、見上げる。

 

坪内美子、見下ろす。(かわいい)

そばに電球。

 

上下方向の視線が交錯します。

 

S96 店先

信吉とおとき、降りて来る。

信吉、方々を探す様子で、

おつねを見ると、

「おじさんは?」

と、訊く。

 

今度は見下ろす三井秀男↓↓

 

見上げる飯田蝶子。

またまた上下方向の視線の交錯です。

 

「お父さんかい?」

と、訊き返す。

信吉「うん」と頷く。

おつね、

「お父さんなら、又旅に出たよ」

 

S98 切符売場

喜八、煙草を吸おうとしたがマッチがない様子。

おたか、ついと立って来て、マッチを貸してやる。

両人、そのまま変な気持ちで並んで坐る。

 

二人。「平行」に並んで、「同一方向」を向きます。

 

「お前さん、何処まで行くの?」

喜八「うん」

「上諏訪までだ」

おたか、侘しく目をふせる。

喜八、

「お前は何処だ?」」

と訊く。

おたか、

「別に何処って当てもないのさ」

と、物憂く言う。

 

仲直りしようとしている男女の会話なんですけど――

「空間論」なんですよね。

Where という空間論。

なんとも心憎い限り。

 

S100 夜汽車の中

眠りこけている人々。

喜八とおたか、並んで坐り、駅弁を肴に酒を飲み始める。

 

「平行線」(=)だった二人が チョンと交錯します↓↓

 

戦後の「東京暮色」の夜汽車の雰囲気もたまらなかったが、

「浮草物語」のこのシーンもたまりませんな。

 

ゴーゴーと遠ざかり行く汽車。

暗い中を――  (F・O)

――完――

 

大好きな「鉄道」&「塔」で締めくくります。