塔の作家・小津安二郎 その15 「浮草物語」③ | トトやんのすべて

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および諸芸術作品への偉そうな評論をつづっていくブログです。

そもそも……兵頭二十八先生の「日本の高塔」を読んだわたくしが、

小津作品の中の「塔」を集めてみたら

おもしろいのではなかろうか?

などと思いついてはじまったこのシリーズなのですが……

 

ようするに

重要なのは「塔」ではなくて

「視線」である。

という、あたりまえのことに「出来ごころ」の分析あたりから気付いてきました。

 

となると、小津安二郎自身の意識はどうなのだろう?

という問題がでてきます。

たとえば「若き日」における 「塔を見上げる」というシーン(たいてい煙突ですが)

安っさん自身の意識は「塔」(煙突)がメインだったのか?

それとも上を見上げる視線を撮りたいがためのエサが「塔」(煙突)であったのか??

 

その点につきまして、注目したいのは

泰流社「小津安二郎全発言(1933~1945)」所収の

「小津安二郎座談会」(45ページより)でありまして――

(「キネマ旬報」昭和10年4月1日号掲載)

 

小津:これも音羽屋の話ですが眼の高さで気持がわかると云うのです。或る男が電話を掛けている。受話器の高さが口の高さとして、目の高さ、視線の高さが、受話器のあたりなら相手は同輩だし、それより低ければ目上の人、更に低く目が外れている場合は、借金の云い訳か何かだという。

 今逆に電話を掛けるアクションをさせるでしょう。もう少し眼を下げてと、眼の位置を指定すれば、これは相手は目上の人だという理解力が俳優に欲しい。だから必ずしも演技に及第点があれとは云わない。だけど、理解力だけは及第点がなければ困る。

(中略)

小津:手と目が逆に動く場合があるでしょう。大勢と話をして、その中に一人の顔馴染みがいた。話をしていてチラリと見てアッという眼のかえり方、これが映画になると困る。うちの俳優の中にも一度で出来た人はいません。

(泰流社、田中眞澄編「小津安二郎全発言(1933~1945)」56~57ページより)

 

あるいは「小津安二郎・人と仕事」所収の吉川満子の発言――

 

吉川=私は「母を恋はずや」で、ワンカットの為に24時間かゝったことあるわ。紅茶をスプーンで一つ二つ、あと半廻わしゝして顔を左の方へ動かせっていうの。これが出来なかったの。「どうして二つ半廻わしてから顔を動かすの」と聞いたら「お前が下手だからだ」というのよ。(笑)顔を動かすのも、顔と目とを同時に動かせ、目が先でも顔が先でも駄目だっていうのよ。

(蛮友社「小津安二郎・人と仕事」153ページより)

 

映画とは、畢竟「視線」の芸術――そんなこと、小津は 松竹蒲田に入ったその当時からわかっていたのかもしれません。

が、

1934年、吉川満子の「視線」に24時間もこだわりつづけた小津安二郎。

1935年、音羽屋……六代目尾上菊五郎の「視線」論を語る小津安二郎。

昭和10年前後に 「視線」に妙にこだわっている安っさんの姿があるのもまた事実。

 

□□□□□□□□

「浮草物語」の分析を続けます。

 

S54 楽屋(夜)

おときとおたかが舞台のお化粧をしている。

おたか、ふいと考え込む。

おとき、気にして、

「姉さん……」と、声を掛ける。

おたか、物憂く見返す。

おとき、笑って、

「昼間の痴話喧嘩を

晩まで持ち越すなんて

姉さんにも似合わないじゃないの」

 

地方まわりの旅芸人なんだから

もっとチープで乱雑だろう、などと考えるのが「自然」ですが――

 

「自然主義」からもっとも遠くにいるのが われらが小津安二郎で、

ご覧のようにきっちりしているわけです。

坪内美子は東京の舞台に出て来てもおかしくないような美しさです。

 

当然、ここも視線は「水平」

どちらかを立たせたり 寝させたりするのが「自然」でしょうが、

そんなことはしないのです。

 

場所を移動した坪内美子ですが、立ったまま喋ったりはしません。

しゃがんでセリフをいうのです。

 

あくまで「水平」の視線のためです。

 

「鏡」という 女の二面性を象徴する小道具の前で――

悪いことをそそのかす八雲理恵子です。

 

そうか、だから坪内美子は鏡の前から移動しないといけなかったのか。

悪い子だけど純粋な坪内美子は、鏡の前にいてはいけなかったのでしょう。

 

 

 

「お前さんに頼みがあるんだけどねえ」

おとき「なあに?」と訊ねる。

おたか、

「今日の小料理屋の息子を

ちょいと引っかけてみない?」

おとき、驚く。忽ち笑って、

「いやだわ。あたし、あんな子供なんか」

 

鏡の前にいる悪い八雲姐さん。

画面奥にいる坪内美子。

なんとまあ美しい構図。

視線が真逆というのもいいですねえ。

 

おとき、小道具かなんか持って再び自分の鏡台の前へ戻って来る。

ハッとなって見る。

鏡台に十円紙幣がのっている。

 

なにかと「カネ」が登場するおはなしです。

S26 川に財布を落とす喜八(坂本武)

S46 富坊(突貫小僧)の猫の貯金箱

そしてこの十円札――

これ以降も登場するわけですが。

 

「やってごらんよ」

おとき、紙幣を横へ置き返す。

おたか、すすめる。おとき、

「なぜさ?」

と聞く。

 

また坪内美子の足の裏。今度は足袋をはいていますが。

足袋……

ここで厚田雄春の証言の引用。

 

厚田:ロー・ポジションのことは、また別にお話しなきゃなりませんが、その足の裏ですね、これは足袋ってことなんですよ。これは、何度もテストしてると、裏が自然とよごれちゃう。ですから、女優さんの場合、六文の足袋をはく人がいたら、それより一つ上の文の足袋を用意しといて、テストのときは、その大きい方の足袋を重ねてはかせてやるんです。で、「本番」ってときに、大きい足袋を脱いでやってもらう。

(筑摩書房、厚田雄春・蓮實重彦「小津安二郎物語」151ページより)

 

だが、このカットの足袋は汚れているように見えるから↓↓

この方法を案出する前のことだったのか?

 

また「足袋」にこだわりますが……

ふたたび厚田さんの証言。

 

(トマス注:検閲に関して)

蓮實:小津さんの作品で、撮影中に、こういうところは危いなと思われたことはありましたか。

厚田:ぼく自身は、あまり気がつきませんでしたが、たしか、『浮草物語』で、三井弘次と恋仲になる坪内美子が、足袋をぬぐとこがありまして、そこがいかんといって切られたことがあります。和服の娘が外で裸足になるのは、いろいろ想像させるというんです。

(同書113ページより)

 

「足袋をぬぐとこ」が検閲で切られたというのですが、

おそらくこのショットと対になるはずのところだったのでしょうねえ↓↓

どんだけセクシーなショットであったことか……

 

まあ、ヒッチコックだとストッキングを脱いじゃったりするんですけど。

戦前の日本映画だとこれくらいが限度だったのか??

 

もとい、ざっとおもいだしてみても

「早春」の池辺良とか 「東京物語」の香川京子とか

靴下関係の描写が妙に多い小津安っさんであります。

 

「あたしに出来るかしら?」

おたか、笑って、

「お前さんの可愛い目で睨めば、

大がいの男は

お弁当持って追っかけて来るよ」

と、おだてる。

 

「お弁当持って追っかけて来るよ」はいいですね。

今のシナリオライターでは書けませんなー

 

にゃんまげ、ではなくて

突貫小僧が登場して、このシーンは終り。

 

で、

S56 町はずれの大銀杏の木の下

おときがたった一人待っている。

 

戦後の「浮草」をご覧になった方に説明すると――

若尾文子たんが川口浩にブッチューとキスしちゃう あれの戦前バージョンなわけですが、

なんとまあ可憐ですよ。戦前は。。

 

ああ。これも「塔」のショットと分類してしまっていいのか?

小さな幟? 

 

帯の柄の「+」に注目してしまうトマス・ピンコであった……

 

水平線「=」の「浮草物語」ですが、

坪内美子&三井秀男は結ばれるわけで……

「+」はそういうことなのか??

 

シナリオで「大銀杏」と指定されているのは、

「この木の根元で撮るぞ」と決まったところがあったのか?

たいがいイチョウはあるだろう、という観測のもと書いてしまったのか?

 

たしかに、

この樹皮の感じは、イチョウっぽい……

 

うん。ロングで撮ったこのショットからみても

イチョウ……かな。

 

なにがいいたいのかというと、「樹木」というと

ポプラのような スッと真っ直ぐ立った木が好きな小津が……

なぜイチョウか? ということです。

 

いろいろ愚考しますに――

・坪内美子が三井秀男をだますシーンなので、真っ直ぐに立った木はふさわしくないとおもったから。

・イチョウというと「乳」のあるものがあったりして 女性的なイメージがあるから。

・ロケハンでみつけたこのイチョウがなぜか気に入ってしまったから。

 

あんがい、三番目が正解だったりして??

 

ああ。巨樹ですので「塔」のショットですね。

だが、坪内美子も三井秀男も この「塔」を見上げたりはしません。

 

「昨日は、失礼いたしました」

信吉「いいえ」と、まぶし相におときを見て会釈を返す。

おとき、寄って来て、媚を見せていたが

「あのう……」と決心した様に、

「一寸お話したい事が

あるんですけど……」

 

八雲姐さんのおっしゃるとおりで

坪内美子たんがニコっと微笑めば、誰だってコロッと逝ってしまうわけで……

 

「僕、来られるかどうか

分らないけど……」

と言い、後をも見ずに去り行く。

おとき、微笑して見送る。

 

S57 時計(夜の十時を指している)

 

S58 信吉の部屋

信吉が机の前でじっと考えている。

汗をかく感じで――

時計を見上げては頻りと考え込む。

 

という、「塔」(時計)を見上げるショット。

 

あと、思うのは、三井秀男の頭の形がいいなぁ ということ。

「非常線の女」以降、彼がよく使われているのはそのせいかも?

江川宇礼雄の頭の形にも似てるかな。

 

S59 下の座敷

おつね、針仕事している。

信吉、入って来て、

「おっかさん、一寸

散歩に行って来るよ」

 

飯田蝶子の上を見上げるショット。

 

S61 大銀杏の処

信吉、やって来る。

おときが待っている。

 

ふたたび塔(巨樹)のショット。

 

坪内美子が足袋を脱いだせいで 検閲でカットされたしまった部分というのは――

全集のシナリオをみるかぎり このあたりなのでしょう。

 

S62 草叢

おとき、そっと信吉の手を取る。

そして、

「随分固い手ね」

信吉、引っこめて、

「学校で、毎日、実習してるんです」

と言う。

おとき、草の中に寝そべる。

「むし暑い晩だこと」

「草のにおいが、とてもするわ」

信吉、じっと、おときを見る。

草をかむ。

 

S63 楽屋

 

坪内美子が帰ってきます。

このシーンはなんとも艶めかしい雰囲気。

 

やっぱり……帯の「+」は 意図的だな、とおもうわけですよ↓↓

窓の桟の「=」との対照も、考えたいところ。

 

シナリオですと 八雲姐さんの「どうだったい?」という問いに

坪内美子は無言のままなのですが、

プリントですと 「お茶の子さ!」というようなジェスチャーがあります。

このジェスチャーがなんとも美しいのだよな。

 

S64 河原

 

皆で洗濯してます。ロケシーン。

一瞬「清水宏かよ!」とおもうのですが、

清水だったら 広角でどかーッと川の流れをキラキラと前面に描くわけですが、

 

小津の川は奥の方にちんまりキラキラしているだけですな。

あくまで、さきほどの……八雲恵美子&坪内美子の正反対を向いていたショット、

あれの対になるショットを撮りたかっただけなのでしょう。

 

まったく正反対を向く、坂本武&八雲恵美子です。

 

前のシーンで 「おときが居ねえじゃねえか」などという話題が出まして――

 

S66 人気なき草原

向うに線路が見えて――

木蔭で、おときと学校帰りの信吉とがいい気持でラブシーンしている。

 

背後には塔(電柱)

なんだか 「鬼滅の刃」の背景でもみているかのようです。

あれは大正時代のおはなしですが。

 

両人の後を汽車が走って行く。

おとき、汽車を見送って「ねえ」

と、信吉を見て、

「もうじき、あたし達もお別れねえ」

と言い、ハッと見る男に「ねえ」と続けて、

 

というあたりですが――

 

ここがとんでもないのは……

 

三井秀男&坪内美子の頭が

長方形画面の対角線にぴっちり合っていることで……

 

田舎ですから、そう汽車が何度もやってくるわけではないでしょうし……

一体何回リハーサルをしたのだろうか?

一発でOKだったのだろうか?

何回か撮り直したのだろうか?

 

「小津安二郎物語」191ページに

おそらくこのシーンの撮影風景だろうというスナップがありますが

「中央線韮崎で」とありますね。

 

新人の坪内美子たんですが、

横顔はなんだか絹代ちゃん……田中絹代に似てるかな?

 

「浮草物語」の次回作は、その大スタア・田中絹代主演の「箱入娘」ですが

これはプリントが残っておらず、どんな作品だか わからない。

シナリオをみるかぎりは……「浮草物語」にはとても及ばない失敗作のように感じます。

興行成績も「浮草物語」はまあまあ良かったそうですが、

「箱入娘」はコケたようです。

 

あ。平行線(電線)↓↓ ですね。

背景は南アルプスの山々でしょうか。

 

 

悲壮な表情の坪内美子に比べて

三井秀男の表情は明るい。

 

おとき(坪内美子)は以前にもこんな経験があったのかもしれない。

 

ここもまた電線↓↓

 

電柱という「塔」

ローポジションなので 坪内美子にしろ 三井秀男にしろ

実に堂々と写ってます。

 

どこか西部劇みたいな感じもします。

 

ああ、そうそう

二人の視線は「水平」なわけですよ。

 

「出来ごころ」の 大日方伝&伏見信子のラブシーン

あれを「上下方向の視線の交錯」で撮ったわけですが、

「浮草物語」はあくまで「水平」で攻めるわけです。

 

二人の頭が 塔(電柱)のてっぺんとぴったり揃っている。

これは大変な手間ですよ。

1ショット 1ショット めんどくさいことをやってます。

 

「ね、怒らないでね」

「あたし、あなたをだまそうとしてかかったのよ」

信吉「え?」となって見る。

おとき、切なげに、

「はじめは……でも……」

「でも……」と、項垂れる。

 

フェミニズム批評からすると「男性中心の甘いファンタジー」などと叩かれそうなところですが……

 

シナリオなんてものはどうでもよくて

スクリーン上の出来事は……

三井秀男の足(=)

三井秀男&坪内美子(=)

レール(=)

電柱(=)

電線(=)

……と 平行線(=)だらけの画面の中で、

 

坪内美子の帯の模様が 「+」とまじわっているところです。

この「+」が二人の未来を暗示しているのでしょうか?

 

ところでレールの上を歩くとか、

今はこういうシーンは撮れるのかな??

 

④に続きます。