西崎の死を知ったのは、2010年のことである。なんでも、小
笠原近海で、ダイビング中に死亡したのだという。晩年の西崎は、
車いす生活だったという。なぜ、ダイビングをしたのだろうか。
あれこれ謎も残った。ぼくは、ひそかに、西崎の死を悼んだ。
笠原近海で、ダイビング中に死亡したのだという。晩年の西崎は、
車いす生活だったという。なぜ、ダイビングをしたのだろうか。
あれこれ謎も残った。ぼくは、ひそかに、西崎の死を悼んだ。
再び、ヤマトのリメークが進行するのは、西崎の死後、早くも二
年後のことで、ぼくも完成試写会に招かれた。といっても、ぼく
も松本も、クレジットに名を連ねることはなかった。西崎の死後
著作権を譲られたと称する息子と、制作プロが、柳の下のドジョ
ウ獲りに、乗り出したのである。
“おおよその”原作者である松本零士を差し置いて、なぜ、ぼく
のところに招待状が来たかといえば、新作ヤマトの総監督を、あ
の出渕裕が、務めていたからだ。今の出渕は、三十数年前、西崎
のもとへ連れて行った頃の出渕ではない。類まれな才能を開花さ
せ、単なるメカデザイナーに留まらず、アニメ界の重鎮として、
大いに名声を博し、新作ヤマトの総監督として迎えられたのであ
る。
出渕は、申し訳ないと、しきりに繰り返した。『宇宙戦艦ヤマ
ト』のリメークながら、クレジットのどこにも、松本やぼくの名
はない。出渕は制作プロにも、掛け合ってくれたらしい。しかし
あの不幸な裁判以降、ヤマトは、松本の手を離れている。
出渕が、どうしても、松本零士に謝りたいというので、ぼくは、
さる機会をとらえて、かつてのヤマト以来、数十年ぶりに、松本
に出淵を引き合わせた。ぼくにも、ためらいがあった。もし松本
が怒り出したら、なんとかとりなそうと心づもりしていた。出渕
も、気まずい部分を乗り越えて、同じクリエイターとして、先駆
者である松本に、あらためて挨拶し、仁義を切ろうと覚悟してい
たらしい。
松本は、三十数年前に、メカデザイナーとして手伝ってくれた出
渕を覚えていた。出渕が、新作の総監督を担当されることになり、
なんとか松本やぼくのクレジットを入れるよう、制作プロ側に働
きかけたものの、及ばなかったことなど、事情を説明した。
「わかった。やるからには、頑張って、良い作品を作りなさい」
松本は、出渕の説明を聞いて、意外にも励ましの言葉を口にした。
内心びくびくものだったぼくは、胸をなでおろした。さすが、一
流のクリエイターは、違うものだと、あらためて松本を見なおす
想いだった。
その後、ヤマトは、何度か映像化されている。木村拓哉主演の実
写版ヤマトは、2010年に」封切られた。関連したイベントが
赤坂サカスで催された際、爆笑問題の司会の番宣に、ゲストとし
て呼ばれ、最初のヤマトが実現したいきさつなど、ぼくが語るこ
とになった。「鉄腕アトム」にしても、「エイトマン」にしても
そして「宇宙戦艦ヤマト」にしても、関係した人間の多くが、す
でに物故している。生きている人間が語るのは、大げさに言えば
歴史の証人としての義務だ。
ぼくは、この本で書いた事実の一部を、そこで語った。以後、ヤ
マトからは、離れて今に至っている。