93年は、日本の格闘技史において大きな節目となった年だった。
2月28日、リングスで実験リーグが始まっている。
実験リーグはその名の通り格闘技の既存の枠組みにとらわれず、
新たな可能性を切り拓こうとした実験的な興行で、軽量級の選手
を中心に試合が組まれていた。
実験リーグを始めた前田日明の発想は早かった。
格闘技の選手を団体の垣根を越えて集めて試合を組む。
さらに実験リーグでは、リアルファイトとプロレス的な試合が
1つの興行の中に混在していた。
リアルファイトに対する観客の反応を見る、という“実験”も
行われていたのかもしれない。
リングスの道場でも、平は練習をさせてもらっている。
その時、前田はよく質問をしてきたという。
「平、お前だったらこんな時にどうする?」
高校生だった頃からの憧れだった前田日明がテクニックに関する
質問をしてくれる喜び。
どの団体であろうが、年下であろうが、1人の格闘家として接す
る。
「前田さんて凄い人だな」と思ったという。
平がまだシューティングのインストラクター見習いだった頃、ア
マレスの強豪選手がスーパータイガージムに来たことがある。
その晩、佐山は不在だったが、なぜか前田がいた。
前田は練習が始まると、アマレスのタックルやグラウンドテクニ
ックについていろいろ質問し、実戦形式で教えてもらっていた。
それを遠くから遠慮がちに見ていた平に、前田は声をかけた。
「おい、遠慮するな。こっちに来て一緒に教わっていいんだぞ。
学ぶときはみんな平等なんだから」
インストラクター見習いの平にも、等しく学ぶ機会を与えた前田。
こういった人は格闘技界でもそうはいない、と平は言う。
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それからおよそ2ヶ月後の4月30日、代々木競技場第一体育館で
『K-1GP93』が開幕している。
のちに格闘技界を席巻するK-1が本格的な産声を上げた瞬間だった。
8選手出場のワンデイ・トーナメントでは、ピーター・アーツや
モーリス・スミスといった優勝候補が次々に破れ、当時無名だった
ブランコ・シカティックが優勝。
派手なKOシーンに代表される迫力あるファイトが続出し、K-1
の名を世に知らしめた興行となった。
平はこの興行で、総合格闘技のエキジビジョン・マッチを行って
いる。
だが、平はこの試合後にバク宙を失敗して膝を負傷してしまう。
ここから平は少しの間、欠場を余儀なくされた。
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9月21日、東京ベイNKホールでパンクラスが旗揚げする。
全試合がリアルファイトの興行は、全5試合の試合時間合計が
わずか13分5秒だった。
この興行以降、「秒殺」という言葉が流行った。
UWFから派生した団体が、全てリアルファイトで試合を行う
時代に突入していた。
パンクラスの興行は第1試合から、見慣れた攻防が成立しない
試合の連続だった。
あの時代のパンクラスは、選手がリアルファイトで技術を競い
合うレベルではまだなかった、と平は言う。
そのため、試合は短時間であっけなく終わる。
勢いに任せて攻撃をし、相手を飲み込んだ選手が試合に勝った。
メインの船木誠勝vsウェイン・シャムロックは、リアルファイト
の残酷さが浮き彫りとなった。
6分15秒、スリーパーホールドでシャムロックの勝利。
団体のエースが旗揚げ戦で、何もできずに負けた。
興行を重ねるうちにパンクラスは選手にダメージが蓄積し、
名勝負が生まれにくい状況になった。
リアルファイトでは興行のペースが頻繁なほどコンディション
確保が難しい。
あの時代のパンクラスはなお一層そのことを思い知らせた興行
だった。
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それまで日本で行われた総合格闘技はグラウンドでの打撃、わ
かりやすく言えば寝ている状態の相手に対するパンチ攻撃(パ
ウンド)が禁じられていた。
「第1章」のルールは現在の総合格闘技とは別物だった。
日本の総合格闘技は“組み技と打撃の両方をできる者が強い”
という発想からスタートした。
総合格闘技「第1章」のルールを振り返ると、シューティング
が膠着を避けるためにグラウンドでのボディへの打撃を導入し
ていたものの、顔面への打撃は禁止。
あくまでも試合の膠着を防ぐ手段として導入されていた。
リングスやパンクラス、そして正道会館で行なわれる総合格闘技
の試合ではグラウンドの打撃は禁止されていた。
理由は簡単だ。
やっぱり、寝ている相手を上から殴ることは危険だったからだ。
その常識を覆す新しい総合格闘技が突如、出現した。
UFCだ。
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同じ[UFC」でも、初期のUFCは現在行われているスポーツ
ライクな大会とはまったく異なるものだった。
当時のルールブックはたったの1枚。
何しろ反則は目潰しと噛み付きだけ。
それ以外は全ての攻撃が認められていた。
頭突きや肘打ちどころか、第2回大会では、金的攻撃さえOKに
なった。
体重制限もなく、1R5分の無制限ラウンド制(第2回大会より
時間無制限となる)で、試合はKOかギブアップ、セコンドから
のタオル投入で決まる。
コロラド州デンバーで行われた第1回大会には、日本でもお馴染み
のウエイン・シャムロックとジェラルド・ゴルドーも参戦した。
この大会を制したのは、ホイス・グレーシー。
ホイスは準決勝でシャムロック、決勝でゴルドーを共にチョーク
スリーパーで下して優勝した。
凄惨さから言えば、目を背けるほどのシーンはほとんどなかった。
バーリ・トゥードの闘い方をまだ理解していなかった平は、ホイ
スの凄さも感じ取れなかったこともあり、試合結果を聞いてもや
はりこれといった興味は抱かなかったという。
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翌94年3月11日、再びデンバーで第二回大会が開催されるこ
とになった。
この大会に、大道塾の市原海樹が「出場する」ことを聞いた。
93年11月に開催された大道塾の全日本大会、北斗旗無差別級
で市原は優勝した。
その試合を見に行っていた平は、市川に「UFCに出るので見に
きてください」といわれた。
平はデンバーに行くことに決めた。
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第2回大会はUEC史上もっとも凄惨な大会と言われる。
暗い会場の中央に、金網で囲われた八角形のリング、オクタゴン
がある。
そこだけが照明で照らされて明るく光っている。
この日は16人参加のワンデイ・トーナメント。
トーナメントが始まると、選手同士が牽制し合って、特に危ない
技が出ることもなく数試合が終わった。
16人の出場選手の中には格闘家に見えないような怪しい選手も
いた。
ホリオン・グレーシーがこう言っていたことを知った。
「興行にはシャークと金魚が必要だ。
シャークが金魚を食べるのを見たいから観客が集まるんだ」
試合が進むうちに、平は徐々にオクタゴンの恐ろしさを目の当た
りにする。
グラウンドに倒された後、肘を打ち下ろされ、蹴られる。
相手が無抵抗でも、失神するまで続く打撃。
なにしろこの大会にはレフェリーストップがないのだ。
セコンドがタオルを投げ入れても、レフェリーがそれに気づいて
止めるまでには時間差がある。
こんな試合形式は誰もが初めてで、いつタオルを投入するべきか
わからないセコンドも多かった。
その間、失神した選手は殴られっぱなしだ。
上から打ち下ろされる肘の勢いで頭がバウンドする。
ボコボコッと鈍い音が会場に本当に響いた。
選手が死んだかと本気で思う、そんな試合がいくつかあった。
この第2回大会を制したのは、前回王者のホイス・グレーシー
だった。
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この日、日本から多くの格闘技ファンと関係者が観戦に来ていた。
その中にプロの総合格闘家である平がいた。当然のように、ファン
が声をかけてくる。
「平さんだったら、どう闘いますか」
しかし、平にはそのファンの問い掛けは、こう聞こえた。
「お前ならどうやって闘うんだ。オクタゴンに入れるのか。
本当は、怖いんだろう?」
オクタゴンの中で惨劇のターゲットになったのは、体格が小さい
選手だった。
当時の無差別級の闘いにおいて、平の体格では金魚の立場だった。
正確にはオクタゴンの闘い方を知らないホイス以外の選手はみんな
金魚だったのかもしれない。
ただ、同じ金魚が闘えば、大きな金魚に小さな金魚は噛み殺される。
グレーシー柔術を知るホイス以外、ただの喧嘩のような闘い方しか
できない。
格闘技のプロがルールなしで本気で喧嘩をしたら、この日のような
バイオレンスで目を背けたくなる試合になる。
皮肉なことに、総合格闘技が世界中で爆発的に広まるきっかけが
このUFC第2回大会だった。
たった1日でそれまでの総合格闘技はヌルくて、甘い格闘技になっ
てしまったのだ。