土佐藩出身の陸軍軍人・政治家の谷干城(たてき)。
西南戦争で、熊本鎮台司令長官だった人だ。
「越すに越されぬ田原坂」を越して薩軍を南下
させた立役者だ。
彼は反骨・清廉の性格の持ち主で、
北海道開拓使官有物払い下げ事件においては
陸軍の大御所である山県有朋と対立し、
その後、第一次伊藤博文内閣の農商務大臣在任中に
おいては欧化主義による条約改正に反対して、
二年も満たずに辞任するなどしている。
谷は短気な性格であったともいうが、
彼は権力に反旗を翻すたびに名を高めた
こともまた確かであった。
そんな反骨ぶりから「頑癖(がんぺき)将軍」と
まで呼ばれた干城は、1901年、64歳のとき、
と、あることがらに夢中になった。
それが、故郷の先輩である坂本龍馬を近江屋で
暗殺した犯人を自らの手で探すことだった。
実はその前年、元京都見廻組の今井信郎が
「龍馬を殺害したのは自分である」と語った手記が
雑誌に掲載され、それを干城が読んでいたのだ。
しかも、干城は龍馬が暗殺された直後に
近江屋に駆けつけていた人物で、
龍馬とともに襲われた中岡慎太郎がまだ息の
あったときに聞いた話により、
「暗殺犯は新選組の原田左之助である」と思い続けていた。
その自説が今井の手記によってくつがえったことを知り
龍馬を暗殺した真犯人を探そうと躍起になったのである。
だが、改めて調べたものの、
干城は真犯人を断定することはできなかった。
もちろん、この出来事は現在に至るまで
謎の多い事件とされているから、
干城が解決できなかったのも仕方がなかった。
その後の干城だが、愛妻・玖満子が自分よりも
先にあの世へと旅立ち、
自身は脳や腎臓の病によって1911年5月に
75歳で亡くなっている。