▼1 戦国武将で最も長く生きた真田信之の悲しい晩年 | ぐーすけとりきのブログ

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 真田信之は、時代や一族に翻弄されっぱなし
の人生の持ち主である。


 上野国沼田城主・真田昌幸の子として
生まれた信之の人生が暗転しはじめるのは、
青年だった1582年に駿府の徳川家康の許へ
人質として差し出されたときからである。


 そして、天下分け目の合戦である関ヶ原の戦いに
おいては、父・昌幸と弟・幸村が石田三成方の西軍に
味方し、自らは家康率いる東軍に与した。


 これは信之が以前より徳川家と縁が深かったことに
よるものだが、東軍と西軍のどちらが勝ってもいいように、
つまり真田家を存続させるために、
親子が二手にわかれて相争ったともいえる。


 さて、戦後は父と弟の助命嘆願に奔走した信之。
昌幸らは助命され紀伊九度山へ流罪となる。


慶長19年(1614年)からの大坂の陣では
病気のために出陣できず、
長男の信吉と次男の信政が代理として出陣した。
元和8年(1622年)10月、信濃国松代藩に加増移封され
13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。


 さて、時代は下り、1652年になった。


 87歳を迎えた信之は、いまだ隠居の身になれずにいた。
なぜなら、それは後継者に不安があったためで、
それから5年後、信之はようやく隠居生活を正式に
幕府に申し出て、許されている。


 松代領10万石は次男・信政に、
沼田領は嫡男・信吉の次男・信利にそれぞれ譲り、
自らは松代から一里ほど離れた隠居所に住み
剃髪して「一当斎」と名乗った。


 ところが、まだまだ信之は
安穏と隠居生活を送ることはできなかった。


 1658年、次男の信政が中風によって没してしまうのだ。
このことにより、勢力の均衡に乱れが生じる。
信政は跡目に五男・幸道を指名するが、
幸道ははまだ2歳になったばかりの幼子であり、
これに目をつけた信利が松代領を欲しがったのである。
いわゆる、家督争いだ。


 結局、信之が幸道側についたことから
一件落着となったが、高齢にはキツい作業であった。
信之の体は徐々に病にむしばまれ、
同年10月、93歳で没した。


 この年齢は戦国武将としては最高齢記録というが、
戦国時代という激動の時代を生き抜いた者としては
本当に苦労の絶えなかった人生といえるだろう。