戦国時代、数々のキリシタン大名の中でも、
敬虔さにおいては群を抜いていたと伝わる高山右近。
彼がキリシタンとなったのは父の
高山飛騨守友照(ともてる)(洗礼名はダリヨ)、
によるところが多く、
12歳に受洗し、洗礼名をジュストとした。
右近が敬虔なキリシタンであることは
1578年の出来事を見ればわかる。
その出来事とは、主であった荒木村重が本願寺への
内通を疑われ、織田信長に反旗をひるがえしたときのことで、
これに関し、「自分に帰属しなければ、高槻城領内
のキリシタンを皆殺しにするぞ」と信長から脅された右近は
武士の身分を捨てて信仰に生きることを選んだのだった。
結局、右近は高槻城4万石を安堵される。
領内に教会やセミナリヨ(イエズス会の司祭や修道士を
養成するための初等教育機関)を多く建設し、
その布教にに精力を注いでいる。
ところが1587年の豊臣秀吉による「バテレン追放令」や
1614年の徳川家康による宣教師の国外追放令により
国内のキリシタン大名は大打撃をこうむることになる。
右近も例外ではなく、同年10月、
キリシタン武将・内藤如安(じょあん)や妹内藤ジェリア
らとともにマニラ(フィリピン)はと追放されたのである。
では、その後、高山右近は
どのような人生を送ったのだろうか。
実は、その後に右近はそれほど長くは生きることが
できなかった。
ひと月以上におよぶ長旅が体をむしばんだのだろう、
マニラに到着した右近は、それからわずか40日余で
この世を去ってしまうのである(1615年没 享年63)。
直接の死因は熱病という。
言い伝えによると、右近一行が乗った船の甲板や通路は
食糧難や悪天候で病に伏すものであふれ返り、
高齢の神父は命を落とすほどであった。
だが、マニラに到着した一行を待ち受けていたのは
熱烈な歓迎であった。
現地の要人は船に乗り込んで彼らが来るのを出迎え、
要塞砲は一斉に祝砲を鳴らし、
右近らをひと目見ようと多くの人びとが押し寄せたという。
祝宴の席において、マニラ総督・シルバは
右近のために数件の屋敷を与えることを
約束してくれた。
高山右近というキリシタンの名は
日本から軽く海を飛び越え
遠くマニラの地にまで達していたのだった。