▼3 寺子屋の師匠になった戦国武将・長宗我部盛親 | ぐーすけとりきのブログ

ぐーすけとりきのブログ

ブログの説明を入力します。

 生きるか死ぬかの連戦を強いられた戦国時代。
自身が次の一手をどう打つかは、自分の命に
直結することであった。


 そんな時代を生きたひとりが、土佐国(高知県)の
戦国大名。長宗我部盛親(もりちか)である。


 盛親は長宗我部元親(もとちか)の四男で、
関が原の戦いの時は西軍にくみしていたが、
西軍が劣勢とみるや戦場から逃亡。
戦後は徳川家康に詫びを入れてなんとか生き延びることが
できた。


 だが、かつて、家臣にそそのかされたとはいえ
盛親が兄・津野親忠(ちかただ)を殺害していた
ことを知った家康は、盛親への不信感が増し、領地を没収。
盛親は、その後、京都に入って蟄居の身となり、
髪を下ろして大岩祐夢(たいがんゆうむ)と名乗った。


 しかも、驚くことに、
戦国武将という前歴があるにも関わらず
寺子屋の師匠として14年間も務めていたという。


ただし、この経歴については、
授業内容に関する記述を持つ史料が見当たらず、
このことについて紙幅を割いてない書物もあるため、
史実かどうかは現時点では定かではない。


 さて、とにかく平穏な日々を送っていた盛親であったが、
家康が引き起こした大坂の陣において
再び豊臣方に付いたことから、彼の運命は暗転する。


 結果は知ってのとおり、
家康方が勝利を収めたのだから、関ヶ原の戦いに
引き続き家康を裏切った盛親がもはや許される
はずもなかった。


 盛親に、生きる権利は渡されなかったのだ。


 大阪城が落ちたまさにその日、
与えられた京橋口の守りをろくにせず
逃げ出した盛親は、蜂須賀至鎮の家来に
捕らえられたあと、京都に運ばれて大路を引きずられ、
1615年5月、六条河原で斬首されている。
享年41。


家康を二度も歯向かった男に命はなかった。