拓郎は、普段は気の小さい、子煩悩な男であった。
しかし、いったん酒が入ると、妻の幸江に対して、見境もなく
暴力を振るうようになる。その暴力の程度は、並大抵のもので
はない。妻の幸江は、顔面をげんこつで叩かれるため顔がお岩さん
のように腫れてしまい、その翌日はお客さんの手前、恥ずかしくて
店に出ることができなくなってしまうことがたびたびあった。
一人娘の理沙に対しては、さすがに直接手をあげることはなか
ったが、小さい頃から父親の母親に対する理不尽な暴力を見ていた
理沙は、男性そのものに対する恐怖心を植えつけられてしまい、
共学ではなく、あえて通学が不便にも関わらず女子高校を選んで
通っていた。
小さい頃、父親の暴力が始まると、同居しているおばあちゃんの
久美のところに走っていって、抱きつき泣きじゃくっていたが、
最近はすぐに自分の部屋に逃げるように駆け込み、両耳を耳で
覆ってじっと暴力が収まるのを待つのだった。
家には拓郎の両親が同居していた。父親である静夫は、木村
ガラス店の創業者で、今は息子の拓郎に経営を任せて、趣味の
碁にいそしんでいる。母親の久美は、「日本野鳥の会」に所属
し、夫そっちのけで全国を飛び回っていた。
静夫は、拓郎が新婚の頃には、嫁である幸江に対する暴力が
始まると割って入って、止めさせようとしたが、拓郎と取っ組み
あいになって腰を痛めてしまってからは、やはり、自分の部屋に
静かに入って、じっと暴力の終わるのを待つだけとなっていた。
拓郎は、昼間は真面目に仕事をこなし、愛想もよく取引先の
評判は大変良かった。そのためか、幸江が拓郎の暴力を知人に
訴えても誰も信じてはくれなかった。
あの日も、幸江が店の帳簿付けを終えて、居間でお茶を飲み
ながらホッと一息ついているときであった。近くの一戸建ての
新築工事現場に仕事で出かけていた拓郎は、酒を飲んできたのか
赤い顔をして居間に入ってきた。
「なんだ、お前は。ご主人様が帰ってきたんだ。もっと嬉しそうな
顔をしろ」
拓郎はいきなり幸江を怒鳴りつけたかと思うと、げんこつで1回
その顔を思い切り殴った。不意をつかれた幸江は、その勢いで
床にひっくり返り、熱いお茶をもろに顔面に浴びてしまった。
「熱い!」
悲鳴を上げる幸江に対し、
「なにが熱いだ。俺の苦労も知らないで、のうのうとお茶なんか
飲んでやがって!」
どなりながら、仰向けに倒れて顔を手で覆った幸江のおなかを、
物でも踏むように力いっぱい踏みつけた。
「痛い!」
今まで感じたことのないような痛みに、幸江は記憶が薄れていく
のを感じた。
気がついたのは、病院のベッドの上であった。口から血を吐いて
気を失った幸江に、さすがの拓郎もびっくりして救急車を呼んだ
のだ。だが、拓郎が病室内で医師に笑いながら
「いやあ、階段で急に滑ってお腹を強くうったんですよ」
などと話すのを聞いた幸江は、涙が止まらなくなってしまった。
娘のために、ずっと辛抱してきた自分がかわいそうでならなかった。
そして、心の中で(理沙ごめんね。もうお母さん我慢できない。
お父さんとは一緒にやっていけない)と叫んでいた。