一の谷の合戦に続いて屋島の戦いにも破れた平家は、一路
西へと向かい、やがて九州の豪族の水軍を集めて、再び海戦
を交える準備をととのえていた。
元暦2年(1185)3月、平家と源氏は壇ノ浦で歴史的
合戦を迎えるのである。
いったい源平両軍は、どのくらいの数の船をもっていたのだ
ろうか。「平家物語」によると、源氏3000艘に対して
平家が1000艘となっているが、「吾妻鏡」では840対
500というように、船の数が一致してない。ただ、歴史物語
の記述は大げさだから、とりあえず、少ない方と考えるのが
よさそうだ。
両軍入り乱れての海戦だったが、やがて戦いの大勢が源氏
に傾き、ついに平家の公達、女官が次々に入水し、さらに
安徳天皇を抱いた二位の尼が壇ノ浦の水底に消えたのである。
ところで、源氏が勝ったのは、これまでは「潮の流れが
源氏に幸いして勝利をもたらした」と考えられてきた。しかし
様々な研究から、その説が否定されつつある。ここでも源義経
の奇襲戦法がクローズアップされてきたのだ。
壇ノ浦の合戦当時の軍船を復元してみると、非常に細長い、
スピードの早い船ではないかと考えられる。船の外に突き出した
板の上で12人の漕ぎ手が舟を漕ぐシステムになっている。
そして、兵は船の内部で盾をかまえて戦闘に備えていた。
漕ぎ手は全部船の外へ出ている。舵取りも立っている。そこで
義経は奇襲戦法を用いたのである。
最初に漕ぎ手や舵取りと射て平家方の動きを封じてしまった。
漕ぎ手や舵取りを射られたのだから、船は漂うしかない。
そこへ源氏方が乗り込んでバタバタと切り倒す。これが義経の
奇襲戦法だったのだ。