元禄時代(1688~1704)は商人の台頭がめざ
ましく、江戸や大阪では豪商と呼ばれる人も次々とあら
われた。なかでも紀伊国屋文左衛門は「紀文」と呼ばれ
江戸時代を代表する豪商として名高い。
紀文は数々の逸話を残している。暴風雨の中、船で
紀州みかんを江戸へ運び、大儲けすると、それを元手に
材木商になり、あっという間に御用商人にのぼりつめて
巨万の富を築いた。そして、吉原で湯水のごとく金を
つかって、お大尽遊びをしたことは有名である。
彼が材木商として成功したのには理由がある。その一
つは、火事による材木不足だ。このころ、江戸では火事
があちこちで発生し、家屋の建て替えに必要な材木が
高騰していた。これに目を付けた紀文は材木を買い占め
高値で売ることで、巨万の富を手にしたのである。。
その上、幕閣の実力者である老中・柳沢吉保、勘定
奉行・荻原重秀らに近づいて親交を深めたことも見逃せない。
紀文が短期間に莫大な財を築くことができたのは、幕府
の発注する入れ札に勝っていたからだ。当時の入れ札は、
賄賂の額によって決まっていたから、お金のある者に仕事が
転がり込む仕組みだった。
それだけではなく、紀文は荻原と組んで貨幣鋳造にもかか
わり、莫大な利益を得たといわれる。
しかし、紀文の天下もいつまでも続かなかった。陰りが
見せ始めたのは、五代将軍・綱吉の死去がきっかけだった。
勘定奉行の荻原が罷免され、大老の柳沢吉保も死に、紀文の
後ろ盾だった幕府の要人がいなくなってしまう。
追い打ちをかけたのが「正徳の治」といういわゆるデフレ
政策で、そのため材木の需要がガクンと落ち込み、家業が
傾いていった。
機を見るに敏だった紀文は引き際も心得ていたようで、
こうなると潔く商売をたたんだ。広大な屋敷から浅草寺内
の慈昌院へ引越し、隠居生活に入る。50代前後のことである。
引越しの際には、家財道具を乗せた大八車の長い行列ができ、
運び終えるまで18日もかかった。そのなかには、40箱の
千両箱もあったというから、隠居に入るときに4万両もの資産
をもっていたことになる。これを見た人々は「さすがは天下の
紀文」と噂し合ったという。