室町時代の12代将軍・足利義晴(よしはる)の時代、
将軍家の台所は火の車だった。ついには苦肉の策として
自分の名を売り、生活費にあてるほどだったという。
もともと、主君の名の一字を受けるというのは、武士
としての最高の名誉だとされていた。ところが、応仁の乱
以後は、幕府や将軍の権威が落ち、金しだいで名を買える
ようになってしまった。
天文14年(1545)11月、肥後の大名、相良長唯と
為清の親子は将軍・義晴の一字拝領を願い出たところ、
幕府からは「義」と「晴」といずれをとるかは所望にまかせる
が「義」の字には多額の御礼が必要である、という上意が
伝えられた。父の長唯は「義」の字を拝領して義滋(よししげ)、
子の為清は「晴」の字を拝領して晴広と改名した。ちなみに
「義」の字の方が「晴」の字より倍以上も高かったという。
将軍・義晴の「義」や「晴」の字を授かった人物には
尼子晴久、長尾晴景、伊達晴宗、大友義鎮(よししげ・宗麟)
南部晴政、武田晴信(信玄)などもいる。
13代の義輝は、三好家の家臣・松永秀久に殺された悲劇の
将軍だが、その義輝のまた、朝倉義景、六角義賢、上杉輝虎
(けんしん)、毛利輝元らに「義」や「輝」の字を、礼金と
引き換えに授けている。