15歳で江戸に遊学、安積艮斎(あさかごんさい)に学び、
土佐藩の重役・後藤象二郎に登用されて藩の通商業務を担当した
岩崎弥太郎は、もともとは土佐の寒村に住む浪人だった。
彼は、土佐藩の重鎮・吉田東洋に才能を認められて藩の下級
官吏となる。
東洋の死後は象二郎が藩の全権をにぎるようになるが、象二郎
は長崎で交易をした際に、外商たちから金を借りては軍艦(汽船)
をやたらに買い込み、にっちもさっちもいかなくなってしまう。
そのときに尻拭いを命ぜられたのが弥太郎だった。
弥太郎は象二郎の代理として長崎へ出張し、外商と折衝する。
ここで坂本龍馬と交渉をもったが、龍馬は上京のときに、その
いっさいを弥太郎に托(たく)した。そのため、竜馬の死と維新
のゴタゴタのうちに、海援隊の持ち船や資産はそっくり弥太郎
に移ったのだ。
維新直後は土佐商会という藩経営の商事に従事。廃藩置県とな
って、大阪藩邸、蔵屋敷、藩の汽船などをゆずり受けた。そこで
弥太郎は、大阪に九十九(つくも)商会を設立。明治6年には
三菱商会と改名し、翌年の台湾出兵をはじめ、佐賀の乱、西南戦
での軍事輸送を独占した。
政府の苦境に目をつけて巨大な利益を得たことが、三菱財閥を
形成したともいえるだろう。