張作霖を列車ごと爆破し、国民党の仕業に見せかける。
そんな謀略シナリオを描いて実行したのは、
満州駐留の日本軍「関東軍」の高級参謀河本大作大佐だ。
大規模な武力衝突を起こし、満州の直接統治を強める狙いだった。
昭和3年6月4日午前5時25分、京奉駅の終着駅を目前にした
特別列車が、満鉄の陸橋をくぐった瞬間、大音響とともに
爆発が起きた。
その日の朝日夕刊は1面トップで
「国民党軍の便衣隊 張作霖氏の列車を爆破」
と断定した。
張作霖爆殺の真相は、直後から漏れ始める。
たまたま中国視察に来ていた野党・民政党の代議士一行が
爆殺の約1時間後に奉天駅に降り立った。
事件を知った一行は、奉天の日本総領事館へ向かった。
総領事館では「ひどいことだぞ、陸軍の連中がやったんだ。
これは容易ならんことになる」と大騒ぎになった。
一行は1週間ほど滞在して情報を集めた
その結果
①爆破に使われた黄色火薬は日本以外は使わないものだった。
②現場に残された死体を「南方の志士」と日本側は
説明したが、注射跡だらけの阿片中毒者だった
③爆破地点から日本兵の監視所まで、隠し忘れた
電線が延びていた
などということがわかった。
昭和天皇は、張作霖爆殺の真相を知っていた。
「この事件の首謀者は河本大作大佐である。
田中義一総理は最初私に対し、この事件は甚だ
遺憾なことで…河本を処罰し、
支那に対しては遺憾の意を表するつもりである
という事であった」(「昭和天皇独白録」)
田中首相は当初、昭和天皇にかなり率直に報告し
処罰にも言及していた。
だが有力閣僚や陸軍の強い反対で、姿勢を後退させる。
「田中は再び私のところにやって来て、この問題は
うやむやの中に葬りたいという事であった。
……私は田中に対し、それは前と話が違うではないか、
辞表を出してはどうかと強い語気で言った」
昭和天皇の信を失い、田中内閣は、昭和4年7月2日総辞職する。
だが、事件そのものは結局うやむやにされた。
河本は軍法会議を免れ、
警備上の不備を理由に停職となっただけであった。
謀略を敢行しても処罰されない、
その事実は、これ以降軍人が独断専行を強める一因になった。