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くさもんのブログ

うわさのブログというものをちょっとさわってみました。

日々のことを徒然なるままに。

自分のゲーセン遍歴を絡めた、藤沢のゲーセン「ファンファン」の思い出話のつづき(中編)。


自分は1990年ころから藤沢のゲーセンに本格的に通い始め、前編で書いたとおりファンファンと出会ったのもこの年だった。
翌91年には三歳上のS賀さんから話しかけられて初めてゲーセン仲間ができたが、それは当時爆発的に流行った「ストリートファイターII」ではなく、グラディウスIIIを通じてだった。

ファンファンにもグラディウスIIIはあったが、お店の配慮で難易度を易しくしてくれていた。ただそれが、工場出荷設定を基本とする自分たちにとっては逆に仇となり、ファンファンではなくもっぱらジョイパーのグラディウスIIIを中心に集まっていた。



さらに翌92年からは、ゲーセン仲間の誰かがネオコロの石田店長と仲良くなり、いろいろ融通を利かせていただけるようになった。
具体的には、レバーやボタンの不調にはすぐ対応してくれて、シューティングゲームには連射装置を取り付けてくれて、客たちが自由に書き込める「コミュニケーションノート」も置かせてくれて、果てには当時アーケードゲーム基板を50枚以上は持っていたI川さんによる、いわゆる「持ち込み基板」にも応じてくれた
(I川さんが持っているアーケードゲーム基板のうち、自分たちが遊びたいものをネオコロに持参いただき、ネオコロ店員に頼んで店内で遊べるようにしてもらうこと。ただもちろん、常設ゲームと同様、1プレイごとに100円をネオコロに支払う)。
加えて、ジョイパーやファンファンと比べてお客が少なく、いわゆる穴場的で静かな店内は最高に居心地が良かった
(それだけに早々に閉店してしまったのだろうが・・・)。

そんなわけで、当時高校1年だった自分には1プレイ100円は相当きつかったが、93年3月まではネオコロを中心に通っていた。


高校2年になった93年4月、ネオコロが無くなり藤沢市内のゲーセン選択肢がジョイパーとファンファンの二択に戻ると、ジョイパーよりもファンファンによく通うようになった。
思い返せば、このあたりが一番ファンファンに通っていた時期だったかもしれない。
この頃はシューティングゲームの新作も豊富で、同年冬に出た「雷電II」なんかは3台も並べて設置されていた。その3台に、RRさん、I川さん、自分の3人が陣取り、いっせいのせで雷電IIを開始する、ある意味「3人同時プレイ」なんてこともよくやっていた
(そして、大抵は自分が最初にゲームオーバーになっていた)。




前編にも書いた、格闘ゲームの体力バー部分にテープを貼ってマスクするなんていう奇妙な演出をしていたのもこの時期だったが、さすがに不評だったのかほどなくして剝がされていた(笑)。


ただ、ネオコロという極上のゲーム環境を身体が忘れられなかったのか(笑)、ファンファン中心の生活は長くは続かず、ほどなくしてファンファンやジョイパーに顔を出しつつも各地のメンテが行き届いたゲーセンを渡り歩くようになった。
具体的には・・・

・94年頃からは大船駅近くのゲーセン(セガ、ニューヨーク、ビートマン等)。
・一浪を経て大学生になった96年からは、すでにRRさんやNさんが常連になっていた伊勢原のナポレオン(別名:UFO)や、スペシャリスト店員「塚さん」が勤めてから優良ゲーセンに大化けした地元茅ヶ崎の「ギンザ」。
・少し年月が経ってしまうが、平塚駅北口の「ピットイン」。
・期間的にはかなり短いが、居心地の良さや常連客の濃さはトップクラスだったニュー新橋ビル内の「ジャンボ」。

などなど。


はっきり言って、ファンファンに顔を出す頻度は、後年になるほどおざなりになっていった。
95年にコントロールボックスを買い、お目当てのアーケードゲーム基板さえあれば自宅でとことんこだわったゲーム環境で好きなだけ遊べるようになったのも、メンテナンス的にはイマイチだった同店(ジョイパーよりはずいぶんマシだったが・・・)から遠のいた遠因だったのかもしれない。
さらには、とある事情で2019年から去年(2023年)はまったく行けていなかった。

この頃には、ファンファンに通い続けていたゲーセン仲間が店員さんと仲良くなっており、連射装置などもこちらが準備すれば取り付けてくれるなど、かなり融通が利くようになっていた。
足繫く通えなかったのは本当に心残りである。


そうこうしているうちに、とうとうこのお店もゲーセンの閉店ラッシュに飲まれることになった。


あと一回だけつづく。