ブランクスレート-公平性と同一性- | Cogito ergo sum

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ブランクスレートとは18世紀のロックに始まり、20世紀に最盛期を迎えた「人間は空白の石版である」という説だ。
人間の心や行動の根幹は、生まれた時点ではブランクスレート(=直訳で空白の石版、即ち何もない真っさらな状態)で、そういったものは生きていく環境が全てを決定する。というもの。

この説は科学と政治の関係性の最たる例であったと思われる。
18世紀から20世紀という長い間支持されたのは、決してこの説が正しい訳ではない。少なくとも僕にはそう思える。

現に、人間が空白の石版であったとして、小学校で全く同じ教育を受けたにも関わらず個々にそれぞれ、多種多様な違いが見られる。もちろん、それは「家庭環境が違うからだ」という指摘もあるかもしれない。しかしながら、少なくとも学習の大半は(学問的な)小学校で行われているわけであり、この説が正しいとするならば、せめてその小学校は全員「国語は得意で、算数は苦手」などの一定の共通する特徴があっても良いはずである。もちろん、そのようなことがないのは皆さんの経験で十分にご理解いただけるであろう。


しかし、この説は長い間支持されていた。
この説に対する批判はタブー視されていた、というのが大きな原因だろう。ブランクスレートの否定は人種差別の肯定に繋がるのだ。
その良い例がナチス・ドイツだ。彼らの主張は「我がドイツの技術派世界一!!」というアレで、そのお題目の下にユダヤ人を迫害した。
生まれた時点ですでにドイツ人の方が優れたデータが書き込まれている、ユダヤ人はそうでない。世界のどこを見てもドイツが最初から最も優秀な「石版」なのだ。という、まさにブランクスレートの否定である。

しかしながら、この説には大きな欠点があると、アメリカの認知心理学者スティーブン・ピンカーは指摘する。
スティーブン・ピンカーはブランクスレート批判の有名人だろう。

ブランクスレート批判が人種差別に繋がるというのは「公平性」と「同一性」を履き違えた主張であり、それは政治が科学を歪めた結果の誤った見識なのだ、と。

この世に公平性、例えば機会の平等とか、そういったものが必要なのは一般論として明白だろう。しかしながら、同一性、即ち個々のアイデンティティまでもが一緒でなければならない。というのは考えると気持ちの悪い話だ。

こういった、あやまった見識が植え付けられた原因は初等教育課程や中等教育課程にあったと、自分を振り返って思う。
小学生の頃を思い出して欲しい。「ズルい」という言葉をやたらと聞かなかっただろうか。その「ズルい」にあてがわれた意味こそ、公平性と同一性の履き違えの象徴であるように思えてならない。
「○○ができてズルい」
そんな言葉に隠された誤った知識。必ずしも全てがそうだとは言わないが、ただ、小学校のみんな同じでなければならないという様な風潮は、科学的に見てブランクスレートが否定されている以上改められるべきだ。
そして現に少しずつ改善されている様に感じられる。

日本人は特に公平性と同一性を混同した気持ちの悪い国民性があるように感じられる。まぁ、あくまで僕の主観。
今日は日曜日。
コーヒーを飲みながら、連々と僕の勉強の結果をメモして今日のスタート。

では!