蘇る遠い記憶

 男女という性の他に第二の性と呼ばれるものが存在する。

 エリート体質で支配階級とされるアルファ、最も数が多く中間層とされるベータ、そして、社会的に冷遇されることの多い下位層のオメガ。中でも注目されるのは、事実上の両性具有とされる「アルファ女性」と「オメガ男性」である。ベータ同士はもちろんのこと、アルファやオメガ同士で婚姻することも珍しくはない。

 しかし、アルファとオメガの間にのみ発生する「番」と呼ばれる特別な絆がある。オメガが発するフェロモンに誘われたアルファが相手のフェロモン分泌腺があるうなじを噛むことで成立する。

 「番」の中でも更に特別な「運命の番」というものも存在しているが、その二人が結ばれることはほとんどないと言われている。「運命の番」と結ばれたオメガは身体機能や知能がアルファをも上回る程にまで伸びる場合もあるという。ただし、「番」を失った時の精神的ストレスは一般的なそれと比べ物にならない程に強く、自死するケースがほとんどである。

 オメガの特性として有名なものは二つ。

 一つは「巣作り」と呼ばれるもので、好いた相手の衣類等の私物を使って自分の「巣」を作るというもの。

 そして、もう一つ。冷遇される要因となっている「発情期」だ。ベータでさえも感知できる程のフェロモンを垂れ流し、子を成すこおしか考えられなくなる場合もあるというのだから恐ろしいりしかし、そこまで強い「発情期」は「番」のいないオメガにしかないものなのだとか。およそ半数以上のオメガが十五歳頃までに初めての「発情期」を迎えるという。

 教科書を閉じた少年が隣の席に座る親友の机を叩いた。

「授業中だ、後にしろ」

 親友は少年を見ることもせずにキッパリと言い放つ。少年──桐生院帝は面白くなさそうに唇を尖らせて窓の外に視線を向けた。雲一つない青空を見ていると年上の幼馴染みの瞳を思い出した。どんな時だって真っ直ぐにぶつかってきた視線は、最近になってそらされてしまうことが増えた。

(ああ、面白くねぇ)

 授業なんてこれっぽっちも耳に入ってこなかった。空を眺めていただけで休憩時間になり、親友の竹中順也が肩に手を置いてくるまで何も考えずに過ごしていた。

「それで? 何の話だったんだ?」

 順也の方はしっかり覚えていたらしく、帝の瞳を真っ直ぐに見つめながら問いかけてくる。正直に言うなら大した用でもなかったので忘れていても良かったのだが。否、どちらかと言えば忘れていてほしかった。帝は口元を覆って俯く。改めて問いかけるにはあまりにも恥ずかしい。

「大丈夫か?」

 気分が優れないと判断したのか、順也が心配そうに顔を覗き込んでくるのを制して深く息を吐く。

「この歳で〝まだ〟なのは、おかしいか」

 何が、とまでは言えず、首を傾げた順也に保健体育の教科書を開いてみせる。順也が時折気だるげに錠剤を口にしていたのを何度か見たことがある。それが「発情期」の症状を和らげる抑制剤だというのは彼の弟である紫蘭から聞いている。

 帝がオメガであることはほとんど知られていない。一般的なオメガと比べた時、彼はあまりにも優秀過ぎた。運動能力も知能も優れているために周囲は勝手にアルファだと思い込む。帝は期待に応えるために人一倍努力を重ねた。順也も帝をアルファなのだと思っていた。フェロモンの分泌量が異常なまでに高い順也は気をつけていないとアルファを狂わせてしまう。気を付けなければ、と一線を引いた関係であろうとしていた。そんな日常を続けていたある日のこと、順也は偶然見てしまった。けして上手いとは言えない、それでもどこか帝らしい、完璧な「巣」だった。

 その日から、二人は親友と呼べる関係となった。互いに意見を交換し合い、時にはケンカをすることもあった。それでも、全てを打ち明けることはできていない。順也の「番」のことも、帝の想い人のことも。信用していないわけではない。ただ、少しの勇気が足りないだけ。

「神野先生に相談してみるのはどうだ?」

 順也の言う神野先生というのは養護教諭の神野貴哉のことで、帝の思い浮かべていた幼馴染みのことである。貴哉はアルファ男性だが、職業上オメガの性質にも詳しいはず。

「昼にでも行ってみるか」

 どうやら順也もついてきてくれるらしい。別に断る理由もないし、たまには〝先生〟をしている貴哉を見てみたい気もする。

 午前の授業が終わり、昼食にサンドイッチを食べた。一緒に向かうはずだった順也は紫蘭に捕まって連れて行かれてしまった。極度のブラコンを隠すこともしない紫蘭はよく順也との関係を疑われている。お互いに「番」がいるということで誤解は解かれているようだが、何か引っかかるのは自分だけなのか。ぼんやりと考えながら保健室の扉をノックする。間を置くことなく返ってきたのはすっかり聞き慣れた幼馴染みの声。

「帝。珍しいですね、ここに来るなんて」

 ケンカでもしましたか、との言葉に首を横に振る。いくつか質問があるのだと伝え、用意された椅子に腰掛ける。ブラックなんとかという高級な豆なのだと語っていたコーヒーの味はよくわからなかった。散々コーヒーについて熱く語った貴哉は眼鏡を外す。ケースから取り出した布でレンズを磨きながら話を聞く姿勢をとる。

「俺、子供ができないかもしれない」

 「発情期」というのは身体が子供を作れるように準備をする期間のことだ。つまり、この歳になっても未だに「発情期」が来ないというのはそういうことなのかもしれない。自身で導き出した答えを貴哉に告げれば、レンズに息を吹きかけて再び磨き始めた。

「聞いてんのかよ」

 何も言わない貴哉に少しイライラして、顎を掴んで無理矢理視線を合わせる。あの空と同じ澄んだ青い瞳。呆れたような様子でため息を吐いたかと思えば手を払われた。

「そもそも君、恋人もいないでしょう」

「そ、れは……」

 悔しいが何も言い返せない。生まれてこの方恋人なんていたことはない。俯いた先で視界に入ってきたのは、ブランドに詳しくない帝でも一目でわかる高級そうな腕時計。更に視線を動かせば、薬指にはめられた安っぽいビーズの指輪。

「俺だって……」

 相手がどこの誰なのか、聞いたこともないし聞くつもりもない。胸の痛みを知ってしまったから。知らないままでいたかった。気付かないままでいたかった。握り締めた拳の中、手のひらに爪が刺さった。

 桐生院家と神野家は昔から仲が良かったのだという。だからこそ、貴哉は帝が産まれた時から知っているし、帝は物心ついた時から貴哉を家族の一員として認識していた。だからこそ、わからないこともある。二人の関係が変わってしまったきっかけはなんだったろうか。ぎこちなく視線を外し始めたのはいつからだったろうか。

「俺だって、いつまでも子供じゃない」

 顔を上げれば空色に視界を捕らわれて息が絡み合う。驚きに声を上げるより早くベッドに押し倒され、両手首は頭上で縫い止められた。一切の抵抗を許さないそれに恐怖を覚える。何がいけなかったのか。謝ろうにも答えを見つけられない。溢れ出る雫で景色が歪むのを感じる。帝の涙に冷静さを取り戻したのか、貴哉はゆっくり身体を起こして眼鏡をかけ直した。

「貴哉」

 名前を呼ばれても返事をすることができなかった。反応する程の余裕がなかった。身体が小刻みに震える。存在すらしない相手に嫉妬を覚えて理性を手放してしまうなど、あまりにも未熟だ。怯えた子供のように丸めた身体が優しく包まれる。

「俺は平気だから」

 宥めるように背中を撫でられて苦笑する貴哉に、帝はコーヒーを差し出した。これでも飲んで落ち着け、というところだろうか。程よく冷めたそれを一気に飲み干して帝の額に口付ける。懐かしい習慣に帝が照れ臭そうに微笑んだのを見ていると、どこか刺々しかった心が和らいでいくのを感じた。

 あどけない笑みを浮かべ、幼馴染みのためにと一生懸命ビーズのアクセサリーを作っていた少年は、今や人を魅了してやまない人物となった。帝が人に好かれるのはいいことだと思う。しかし、貴哉は素直にそれを喜べない理由があった。それでも、引き止めるようなことはできなかった。半月程経った頃だっただろうか。帝は少し照れたような笑みを浮かべて貴哉にパートナーを紹介してきた。きっと、帝は覚えていないのだろう。仕方の無いことだ。あの時の帝はあまりにも幼かった。ぷつりと音を立ててビーズの指輪はちぎれてしまった。いつの日か嘲笑ったオメガ女性の心情が今になって悔しいほどによくわかる。


《いかないで!!》


 素直に言うことができたのなら、少しは楽になれたのだろうか。正直に打ち明けることができたなら、彼は今でも傍にいてくれたのだろうか。何度も名前を呼んだ。声が枯れるまで叫んだ。