こんばんは。都議の栗下です。

 

 

昨日は、ファミコン登場後のファミコン有害論やそれに対応する任天堂やメーカーの企業努力について書きました。本日は90年代初頭のゲームに対する社会の問題認識について書きたいと思います。

 

2000年以降に顕著に見られるいわゆる「ゲーム脳」批判ではなく、当初は長時間画面を見て座っていることによる健康被害が懸念されていたと昨日のブログでもお伝えしましたが、光過敏性発作の問題はまさにその一つで90年代初頭には世界的な議論も巻き起こしました。

 

■ゲームと光過敏性発作

1952年、アメリカでテレビにおける光刺激性てんかん発作が報告されたのち、1981年インベーダーゲーム全盛期にロンドンの医師Rushtomがゲームプレイ中に全身のてんかん発作が起きた17歳男性の例を「スペースインベーダーてんかん」として健康被害を訴えました。

 

ファミコン発売以降の89年にはテレビゲームてんかんが7例が報告され、テレビゲームはてんかんと関連づけられるようになりました。90年には任天堂のゲームでてんかんになったという「任天堂てんかん」が報告され、世界でも相次いで同様の発作報告があったため、92年からはゲームの初めに警告表示を開始しました。

 

(Wii起動時の警告画面)

 

 

(任天堂公式HPより「健康と安全のために」Switch版)

 

これら、テレビやテレビゲームがきっかけとなって生じるてんかんは一時期「光刺激性てんかん」と呼ばれていましたが、実際はてんかん以外の複数の要素が関わっている可能性が指摘されているため、現在は光過敏性発作と呼ばれています。

「任天堂てんかん」が報告された2年後の92年には、イギリスの14歳少年が任天堂のスーパーマリオをプレイしている最中に突然死したことが、イギリスのサン紙に「Nintendo Killed My Son!(任天堂が私の息子を殺した!)」と大々的に報道され、世界中で話題となりました。

 

 

■「オタク」の誕生→バッシングとゲームのイメージ低下

1975年に最初のコミケ開催。80年代前半には「オタク」という呼称が生まれ、社会に急速に認知されていくに至りました。そして、演劇や文学などといったメインカルチャーに対して、「ゲーム」「マンガ」はサブカルチャーと呼ばれることが一般的になり(現在においてはもはやメインカルチャー化していますが)オタク=サブカル愛好者として認識されるようになります。

 

それだけならばイメージ低下までは至らなかったかもしれませんが、80年代の末から宮崎勤をはじめとする猟奇的犯罪の原因はオタクであるという趣旨の報道が続き、オタクバッシングが始まります。

 

89年3月、週刊誌SPA!には「麹町小学校4年生殺人事件 増加するゲーム世代“オタク族”のやっぱりおこった『倒錯殺人』」という記事が掲載されています。

 

 

また、89年夏、東京・埼玉幼女連続幼女誘拐殺人事件で宮崎勤が逮捕されると、犯人の宮崎がビデオを収集していたことが報道され、これが所謂オタクバッシングに繋がります。この時の顛末については、当ブログでマンガ規制について取り上げたときにも書きましたので、合わせてご覧いただきたいと思います。

 

 

上記の記事にもゲーム世代=オタク族=犯罪予備軍とはっきり書いてあります。

これらメディアによる世論への影響はそれなりに大きかったようで、その後の都議会における質疑においても社会党の尾崎正一都議が「ゲームばかりやっているとオタク族になってしまう」という趣旨の質疑が行った議事録が残っています。

 

 

振り返ったように80年代末〜90年代初頭、現在においてゲーム依存症議論が行われているのと同様、健康被害や人格に与える影響について世論とのせめぎ合いが続いていきます。

一方で、当時日本経済は破竹の勢い、Japan as No.1の掛け声も勇ましく、その成長の象徴の一つであったゲーム産業に対して政治側もおいそれと規制議論を提起できるような状況ではなかったという背景もあったのではないでしょうか。

 

週末をはさんで次回に続きます。