「これも萬大顕のお陰ね」
十一娘に褒められて萬大顕はえへへと頭をかいた。
取っ掛かりは萬大顕の宿直だった。
十一娘は嬉しかった。
簡先生は女ひとりでずっと頑張って来られた。
簡先生に頼れる男性が傍に居たらどんなにいいだろう。
それは以前から十一娘の思いだった。
明々が褒め称えた。
「流石奥様です。ここぞと云う時に良き助言をなさいましたね!」
十一娘は先生に蕭経歴が訪れる事を勧めた張本人だ。
桔梗も昨日までの鬱憤も晴れ笑顔が溢れている。
「本当です!腕の立つ武士が日夜仙綾閣を訪れてくれるなら奥様も安心出来ますよね!」
萬大顕がこのまま仙綾閣に居ついてしまった場合どうしてくれようと一昨日はまんじりともしなかったのだ。
奥様が上手く蕭大人と先生のあいだを取り持って下さったのでもう萬大顕はお役御免になった。
これで彼はあの繍女だらけの宿直室に行かなくてもいいのだ。
桔梗の頬は安心しきって緩んでいた。
あの場は二人に任せて帰って来たが、ともかく大人の話し合いと言うものがその後どうなったのか尋ねてみる必要があるだろう。
十一娘はそう考えた。
「明日にでも仙綾閣を覗いてみるわ」
全員が賛同した。
「そうなさって下さい」
翌日、仙綾閣の門を潜ったが格別に変わったところはない。
店の奥に簡師匠の姿を見つけた。
「簡先生」
先生は嬉しそうに振り向いた。
「十一娘、来てくれたのね!」
十一娘は単刀直入に尋ねた。
「簡先生、あの後蕭経歴とはどのようなお話をされたのですか?」
師匠はチラと周囲を一瞥すると十一娘を更に奥の間に呼び入れた。
師匠は十一娘に椅子を勧めると俯き加減で言葉を慎重に選ぶと言った風情で語り始めた。
「十一娘、とても有り難いお話を頂いたわ」
「それは…?」
簡先生は有り難いような困ったような複雑な表情を浮かべた。
「蕭経歴は私の事を妻になさりたいと仰ったの」
十一娘は手を打った。
「やはり!」
「でもね、十一娘…貴女も知っての通り私は一度結婚に失敗しているわ…」
十一娘は黙って頷いた。
「だから…正直に言うとね…もう結婚は懲り懲りなの。もうあんな苦しみを味わいたくはないの」
先生は手元の手巾を見つめて言った。
少しの間が空いた。
「それに独りのほうが楽だわ…貴女なら分かって貰えると思うけれど此処で働く多くの人々の暮らしも考えなければ…」
人一倍責任感の強い師匠だ。
「先生…それでは蕭経歴の求婚はどうなさるお積もりですか?」
簡先生は微かに微笑んだ。
「そう言ってきっぱりお断りしたのよ…けれど…」
その含みのある言い方に十一娘は次の言葉を待った。
「そうしたらあの…蕭経歴は私の今の気持ちを尊重すると仰って…」
十一娘の耳には表の喧騒も気にならなくなっていた。
「それでも仙綾閣の事は気に掛けています…と。邪魔にならない程度に寄らせて貰いますと重ねて仰ったわ」
十一娘は簡先生の手を取った。
「先生、良い事ではありませんか…無理強いなさらないで、それでも仙綾閣を守って下さるなんて…」
「そうね…蕭経歴は素晴らしい方よ。それだけにあの方のご厚意を利用しているみたいで気が咎めるのよ」
「それまでお断りしたらむしろ蕭経歴を傷付けることになりませんか?」
簡師匠は頷いた。
十一娘は励ますように宣言した。
「蕭経歴が度々来て下さればもう此処に賊は入って来ません」
その時背後に足音が聞こえた。
「侯爵夫人、全くその通りです」
二人は同時に声のする方に振り返った。
「蕭経歴様」
蕭経歴はつかつかと師匠に近付いた。
「私が寄りたくて来ているのです。貴女が重荷に思う必要はありません。それとも無骨な私では店の雰囲気を壊しますか?」
簡先生は目を丸くして否定した。
「そんな…!此処にも男性は沢山来店されます…奥様への贈り物を求めて来られます。取引先も多く出入り致しますし…」
「では、私も受け入れて貰えるのですね?」
簡先生は頷くよりほかなかった。
「女性ばかりの所帯だがこれで賊の問題は解決しそうだな」
その夜令宣達は枕を並べながら話し合った。
「ええ、先生の傍に屈強な方が付いて下さって私は心底ほっとしました」
令宣は妻の髪を撫でた。
「師匠思いだな…」
「密輸事件に巻き込まれた時に簡先生が生命を張って庇って下さったご恩は返しきれません…」
「あの時お前は処刑寸前でも私に師匠の事を頼んでいた…あの時ほど試練の時はなかったが私よりもお前はもっと辛かっただろうな」
「旦那様…ごめんなさい…旦那様に辛い事を思い出させてしまいました」
「いいんだ…今の幸せを感謝出来るのだから良い事だ」
十一娘は夫に縋りつく理由を探した。
「旦那様…急に秋が深まって来たのでしょうか。今夜は冷えて来ましたね…明日はもっと暖かい掛け布団に替えます」
令宣は十一娘の首の下に腕を差し入れ抱き締めた。
「これでどうだ?布団よりも暖かいだろう?」
十一娘は頷きながら夫の胸に頬ずりした。
二人は互いの幸福を抱き締めながら眠りについた。
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