今日は十一娘が仙綾閣で繍女達に教える授業の日だ。

新しく雇い入れた繍女には基本的なところから教えねばならない。

十一娘は教室内を二手に分け、職工長の朱が中級者を十一娘が初心者を教える事にした。

上級者達はもう仙綾閣の主な担い手となって居て簡先生や十一娘を喜ばせていた。

「徐奥様」

懐かしい声がした。

「佳怡様!」

楊知音の妻佳怡が立っていた。

二人は手を取り合った。

「お久しぶりです!」

佳怡の顔は晴れやかだった。

「長らくご無沙汰をしておりました。早くお会いしたくて此処へお邪魔しました」

「どうぞどうぞお待ちしていました」

そこへぞろぞろと繍女達が入って来たので二人の会話は中断した。


授業が終わると二人はまた近寄り再会を喜び合った。

佳怡はばつが悪そうだった。

「隆を養子に迎えてから忙しくて…言い訳になりますね」

「そんな事いいんです…また会いに来て下さって嬉しいです」

十一娘は本気でそう思っていた。

彼女が訪れないのは悩みを打ち明ける事よりも大切な事が出来たからだと。

便りの無いのは順調な証拠だ。

人気の無くなった教室に誰も邪魔する者は無い。

佳怡は頰を染めて明かした。

「実は…」

きっと喜ばしい報告に違いない…十一娘は思った。

「私…妊娠しました」

「まあっ!おめでとうございます!」

咄嗟に次の言葉が出ないほど十一娘は感動していた。

彼女は十年も夫と身体の触れ合いが無かったのだ。

気がおかしくなる程夫の事で悩んでいたこの方が…。

夜の秘事に疎く夫婦の営みをなさろうとしない旦那様の事であれほど悩んでおられたのに…。

姉上の子どもさんを養子にした事がきっかけで旦那様が急に奥様を女性として意識しだした。

「結局…息子隆の事が転機になりました」

「そうなると思っていました」

佳怡は感服していた。

「見抜いておられたんですね…」

十一娘は手を振って否定した。

「とんでもありません、、佳怡様からお話を伺っているうちにそんな気がしただけです」

佳怡は十一娘に敬意を表した。

「元はと言えば徐奥様にお会いしたのも天意です。奥様に悩みを打ち明けているうちに隆を養子に迎える気になったのですから…」

佳怡はこの出会いに運命を感じていた。

十年も心に秘めていた閨房の秘事を話せる人なんて何処にもいやしないわ。

それを天は出会わせて下さった…。

十一娘は謙遜した。

「もし佳怡様が私に打ち明けて下さった事で心が軽くなられたとしたら…それは佳怡様ご自身の勇気の成果です…こちらこそ話し相手に選んで頂けて光栄です。お腹に赤ちゃんを授かったならこれが始まりですね…もう過去の事は忘れましょう…私も何も記憶に残っていません」

佳怡は感謝の気持ちでいっぱいになり十一娘に歩み寄るとその手をしっかりと握った。

「ありがとうございます!」


十一娘は佳怡を玄関先まで見送った。

これから以降彼女とは話す機会もないだろう。

これで良かったのだ。


人は他人が過去を知っていると思うと不安になるわ。

彼女が幸せを掴んだなら、私も彼女の過去は忘れ去るべきね。

彼女が此処を訪れたのは人生に一区切りをつける為だわ。

私は今心身共に夫に愛されて幸せだ。

彼女もきっと同じ幸せを得られる。


つらつらとそのような感慨に浸っていると直ぐ傍に夫の声が聴こえた。

「十一娘、何を考えてるんだ?」

十一娘はぱあっと明るい顔になった。

「旦那様!迎えに来て下さったのですか?」

令宣は微笑むとその大きい掌で妻の手を繋いだ。

「大事な妻だからな…」

夫の温かい手は私を包んで安心させてくれる。

十一娘は夫にぴたりと身体を寄せてその腕に縋った。

「私は…勿論旦那様の事を考えてましたよ…大切な旦那様ですもの」



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