楊知音が徐府にやって来たのはそれから三日後だった。
半月溿の令宣の書斎に通された楊知音は硬い表情で
令宣を見ると仰々しい挨拶をした。
「知音…他人行儀は止めてくれ。久し振りに会えたんだ。昔みたいに気安くしてくれ…」
令宣が座るように促すと知音は立ったままで尋ねた。
「奥方は?」
「あゝ…もうすぐ来るだろう」
やっと座らせると知音は落ち着きのない様子で入口を見た。
「あれからどうしていた?」
令宣が質問すると知音の顔が微妙に曇った。
「私塾をやめた後…やっとの思いで科挙に合格した。翰林院に務めた時…あの妻を娶った。上司の勧めで。分かるだろう?私に選択の余地など無かったんだ…」
照影が向こうから目配せしている。
「知音、話の腰を折って悪いが酒が届いた」
十一娘が盆を持って入ってきた。
「お話中失礼いたします…毎年我が家で造る梅酒が飲み頃になりました…是非ご賞味下さい」
知音は立って挨拶した。
「奥方、先日は私の妻が大変な騷ぎを起こし誠に申し訳ない…奥方の衣を台無しにしてしまった事を改めて詫びに来ました」
十一娘は徳利と盃を二人の前に置くと一歩下がって言った。
「そんなに仰られると恐縮してしまいます。こちらにも非がありました。御者の不手際です。奥様にお怪我があればそれこそ取り返しがつかないところでした」
「家内には傷ひとつありません…妻の無礼は何卒ご寛容下さい」
知音は再び丁寧に頭を下げた。
「令宣、お前が羨ましい…平穏な家庭だ」
知音は弱音を吐いた。
「妻は心の病です…医者に見せたところで治らないのです」
そう云うと盃の酒をぐいと飲み干した。
令宣も十一娘もどう慰めて良いやら分からず書斎は沈黙に包まれた。
楊が帰ったあと西跨院に戻った十一娘は首を傾げていた。
「どうも変だわ…あの方は真面目一方に見える、…妾や愛人を作るような色好みには見えないのに、どうして奥様はあんな事を?」
桔梗が腕組みして言った。
「そうですね…たとえ妾に嫉妬しても気が触れる程の事でしょうか?」
「先程の話では今妾は置いて居ないらしいわ。だから変なのよね」
明々がフフフッと笑った。
「その点、奥様はお幸せですよね!旦那様は奥様に首ったけですもの」
「今はね!でも私が嫁いで来た当初は妾が三人も居たのよ」
桔梗はニヤリとして二の腕を叩いてみせた。
「奥様はそれを一人また一人と千切っては投げ、投げてはちぎり…」
明々が大笑いした。
十一娘は桔梗をデコピンした。
「もうっ!桔梗やめてよ!桔梗は剣豪草紙の読み過ぎよ。私がそんな乱暴働く訳ないでしょ!」
「あいたた、奥様お許しを〜」
「お前達、随分姦しいな」
令宣が入って来た。
「「あ旦那様、お疲れ様です」」
二人の侍女は潮が引くように下がっていった。
「女三人寄れば姦しいとは良く言ったものだ」
十一娘は令宣の腰に両の腕を回した。
「うふふ…旦那様に愛されて私は幸せです!」
「ハハハ…お前が居てくれて我が家は平安だ…この平安を大切にしなくてはな」
令宣は妻の頬をその温かい掌で包みこんだ。
翌日、十一娘は思いがけない客を迎える事になった。
取り次ぎの侍女が告げた。
「楊家の奥様が若奥様を訪ねて来られました」
侍女が捧げ持った盆には美しい書体で手書きされた名刺が乗せられていた。
楊知音内 方佳怡
十一娘達は顔を見合わせて驚いた。
通されて来た夫人は先日遭った時とは見違えていた。
あの時は驚きが過ぎていた為分からなかったが夫人は整った顔立ちの非常に知的な美人でとても同一人物とは思えなかった。
「突然お伺いしまして申し訳ありません。先日は取り乱し若奥様に大変なご迷惑をお掛けしました」
「どうかもうお忘れになって下さい」
夫人は袂から小振りの桐箱を取り出し十一娘の手に押し付けた。
「これはせめてものお詫びの印です」
十一娘が押し戻しても方夫人は全く引く気配が無い。
仕方なく蓋を開けると黒鼈甲に螺鈿細工を施した美しい簪が入っていた。
この地ではない渡来物の珍宝と見えた。
「こんな高価なものは頂けません」と断るが夫人は首を振って受け取って頂けないと帰れませんと言った。
その断固とした表情に十一娘は負けた。
十一娘は急須から茶を注いで勧めた。
「金寨から届いたばかりの六安瓜片です。どうぞお召し上がり下さい」
「先日お会いしたばかりなのに、、それも醜態をお見せしてしまったのに…このようにご親切に…ありがとうございます」
十一娘は明々と桔梗に合図して下がらせた。
「方奥様、私に何かお話があるのではありませんか?」
方夫人のその知的な瞳がチカリと光った。
「やはり奥様は私の思っていた通りの方です。その通りです…今日伺いましたのは貴女なら私の話を真面目に聞いてくださる方だと直感したからです」
「どうぞお話下さい。私は非力ですが人様の話を聴く耳だけは持っています。ましてここで伺った事は他言しません」
方夫人はこっくり頷くと語り出した。
私は十年前に夫・楊知音と祝言を上げました。
夫は仕官したばかりで夫の上司の仲立ちでしたから夫は断れなかったんだと思います。
けれど私は一目で夫を好きになりました。
親類縁者からも羨ましがられ私は有頂天になりました。
彼は性格も穏やかで優しく私には過ぎた夫だと自分の幸運に感謝したものです。
気の弱いところが玉に瑕ですが縁談が決まった時はそんなもの目に入りません。
祝言の日になり夫は祝宴の酒席に夜遅くまで残っていました。
私は胸をどきどきさせながら新床で夫を待ち侘びておりました。
とうとう夫が皆に送り出されて部屋に入って来ました。
彼は作法通り杖で紅い絹をたくし上げ私の顔を見ました…私はこれからこの人と結ばれるのだと信じ胸の高鳴りが今にも彼に聴こえてしまうのではないかと本気で心配しました。
ところが…いつまで経っても夫は私に手を伸ばして来ません。
私は痺れを切らして自ら簪を外していました。
床に入った後も夫は隣で目を瞑ったまま微動だにしません。
私は夫に尋ねました。
「旦那様は私がお嫌いなのですか?…それとも、もしや他にお好きな方がいらっしゃるのでは?」と。
すると夫は黙って頭を振りました。
「済まない…私にはこのような経験がないのだ…何をどうすれば良いのか分からないし…しようと言う気持ちもさっぱり湧かないのだ」
その言葉を聞いた時の私の絶望をお察し下さい。
私の身体は冷え切り、青くなったままその夜を過ごしました。
翌日から私は考えられる限りの方法を試そうとしました。
乳母に頼み秘本を届けさせたり男性に効くと言う生薬をこっそりと飲み物にいれてみたり…。
ですが馬を水場に連れて行く事は出来ても無理に水を呑ませる事は出来ません。
そうこうするうちに二年が過ぎて当初遠慮していた義父母からも遂に孫の催促です。
悩みに悩んで私は義父母に頼んで妾を輿入れさせました。
私だからいけないのだ。
私以外なら夫は受け入れるかも知れないと…。
そこまで話すと方夫人の両目から滂沱の涙が流れ出した。
十一娘は手巾を彼女の頬に当てて優しく拭った。
娶った妾の床に夫は何日も熱心に通っていました。
私はやはり私がいけなかったんだ、私は嫌われていたのだと自分を責めました。
嫉妬と自責の念で地獄のようでした。
しかしその妾も孕みません。
それもその筈です。
夫は妾と同衾しても手は付けていなかったのです。
妾に問い糺すと夫から何もしなくて良い…同衾さえしておれば手当は出すからと言い含められていたのです。
けれど妾も女です。
女扱いされない事に腹を立てて暫くすると出てゆきました。
何も知らない義父母は焦ってまた次の妾を探して来ました。
仲人に礼を弾み前より美しい女子を選んでくれと。
そんな事が数回も続き…。
気付けば私は神経を病んでいました。
発作が起きると先日のような所業に及んでしまいます。
話し終わると方佳怡は湯呑みに手を伸ばしてゆっくりと茶を啜った。
「奇妙な話をお聞かせして恐縮しています。
ですが貴女に話せて私の心は今穏やかです」
じっと耳を傾けていた十一娘は方佳怡の瞳が先程よりずっと澄んでいると感じた。
「方佳怡様、、。聞き役に私を選んで頂いてありがとうございます。先程申し上げた通り私には何の力もありませんが聞き役に徹して他に漏らさないお約束を致します。話したいと思われましたら何時でもまたお越しください…話す事がなくなるまでこの貴重な簪はお預かりしておきます」
方佳怡はにっこりと笑顔で応えた。