余杭へ出立するにあたって

十一娘のするべき事の第一は仙綾閣を訪れ簡師匠に別れの挨拶をする事だった。


簡先生は目に涙を浮かべて十一娘の手を取った。

十一娘は数年前から此処へ通い続けている愛弟子だ。

同じような年頃でも家庭の事情で身売り同然に繍女として雇った娘は少なくないが名門から通ってくる庶女は十一娘だけだった。

雨の日も風の日もやって来ては一心に刺繍する姿に簡師匠は境遇や年齢を超えて強い連帯感を感じていた。

「十一娘…お母様の療養なら暫くすればまた帰って来れる筈よ。暫しの別れよ…元気で帰って来てね…余杭の繡坊にも私の知り合いが居るの。紹介の文を出しておくから必ず訪ねて行くのよ」

「簡先生、ありがとうございます…元気に帰ってきますから待っていて下さい!」

彼女の顔は溌剌として明るかった。

若い十一娘に感傷は似合わないわねと簡師匠は微笑んだ。

十一娘の庶子としての辛い立場は承知している。

師匠は餞別として絹地や銀子を風呂敷に包み十一娘に手渡した。


方や呂青桐は夫人が外出した隙にこっそりと羅斉興の書斎を訪れた。

呂姨娘は夫の前に跪いた。

「旦那様、お別れに参りました。明日早朝に余杭へ出立致します」

呂姨娘母娘が療養を口実に余杭へ追いやられようとしている事は執事から聞いて知っていた。

羅斉興は己の不甲斐なさに肩を落としていた。

呂姨娘の手を握って立たせた。

「青桐、済まない…私の今の立場ではお前を此処でゆっくりさせてやる事も出来ないのだ…分かってくれるか?」

「承知しております…旦那様、どうか御身体を大切になさって下さいませ」

齊興は青桐の手を握るに留めた。

抱き寄せて慰めてやりたかったが開け放った扉の何処から使用人が見ているか分からない。

正室の李安汐は名門の出身ながら嫉妬心の塊のような女だった。

この屋敷中の召使という召使は安汐の目となって逐一彼女に報告する。

青桐は地方文士の家で育ち学識もあり淑やかで齊興は好ましく思っていた。

安汐はそれを敏感に感じ取り殊更に辛く当たっていたようだ。

青桐を思いやるばかりに彼女との秘事は数えるほどに少なかった。

同じ屋敷に住みながら彼女との縁は薄い。

齊興は握ったその手も離してしまった。

「行きなさい…息災で」

呂姨娘は無言で再び拝礼すると静かに出て行った。


翌早朝、呂青桐と羅十一娘、そして冬青の三名は羅家の脇門から出て馬車に乗り込んだ。

夫人の姥やと女中の二人だけが見送るうら寂しい出発となった。

だが出発した途端に三人の顔は明るくなり声は弾んだ。

「ねえねえお母様、余杭に行ったら先ず何をするの?」

「そうねぇ…先ず屋敷に積もった埃を払うわ」

「うわあ…」

十一娘と冬青は顔を見合わせて眉を顰めた。



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