都へ戻る馬車の中でも十一娘(シイニャン)は刺繍の手を止めない。刺繍は十一娘の心の支えであり生活の糧でもあった。

「この3年で随分とあなたの刺繍の腕もあがったわね」

揺れる馬車の中でも母・呂娘は娘を優しく見つめた。

「本家がお手当を送ってこないからお嬢様の刺繍を売らないと私達食べていけませんでした!」

侍女の冬青は鼻息荒く憤って言った。

「それにしてもどんな理由で呼び戻されたのかしら…」

母・呂青桐は怯えていた。
田舎へ追いやられる3年前に羅家の屋敷であった事が忘れられない。
当時、娘十一娘は嫡娘・元娘の簪を壊したと大奥様から難癖をつけられ板打ちの折檻を受けた。
雨降りしきる中、濡れそぼり板で打ちすえられる娘の姿を思い出すと今も心が血を流す。
呂姨娘はその時娘を庇ったことで流産してしまった。
大夫人は療養にかこつけて母娘を余杭に追放同然に放逐したのだ。

都へ入城する前に休憩に立ち寄った隣町の茶店で事件は起こった。
十一娘は店に入った時から不穏な空気を察知していた。
店員から満席だと断られ咄嗟に出ようとしたが冬青が強引に席をとってしまった。
その茶店は徐公爵将軍から逃げてきた海賊達の密会場所だった。
席に座るや否や客を装って張り込んでいた官兵達の隙を狙い海賊は十一娘を羽交い締めにした。
店の周囲も官兵に取り囲まれていたが海賊達は十一娘を人質にとり太鼓橋に逃走した。
集まった群衆の中で呂姨娘と冬青が泣き叫んで助けを求めた。
そこへ武装兵を引き連れ時の将軍・徐令宣公爵が到着した。
海賊は十一娘を人質にとってまんまと逃走するかと思われたが彼女は気丈にも海賊の腕を刺繍針で刺し一瞬の隙を作った。
海賊が怯んだその一瞬を見逃さなかった徐令宣候爵が弓を引き絞り十一娘の背後の海賊の肩を鮮やかに射抜く。
姿勢を崩された海賊は太鼓橋の頂上から真っ逆さまに川に転落した。
だが海賊に袖を引っ張られた十一娘も同時に転落してしまった。
転落の衝撃で十一娘は気を失って水底へと沈んでいく。
候爵は立て続けに弓で残りの海賊の動きを射止めるとすぐさま川に飛び込んだ。
令宣は意識のないまま沈んでいく十一娘を水中で抱き掴まえた。
水中深く十一娘を抱く令宣を海賊の仲間が刃かざして狙う。
候爵の二の腕を掠める海賊の刃。
海賊を足蹴りする令宣。吹き出す令宣の血潮。
水中での格闘の末に部下達が令宣を襲った海賊を確保した。
ようやく水上に顔を出した二人は偶然川上に居た商家の舟に助けられた。
水を呑んで気絶していた十一娘は宿で手当を受け程なく意識を取り戻した。
回復した十一娘は船へと引き揚げて助けてくれた商家の若旦那と思しき林公子(リン・コンズ)に会いに行った。
そして改めて謝意を伝えた。
「危ないところを助けて下さってありがとうございました」
林公子は礼を言う十一娘の爽やかな笑顔に目を奪われていた。
「当然のことをしたまでです。元気になって安心しました。でも誤解なきよう。川の中で貴女を助けたのはまた別の人です」
永平候は林公子の小舟に十一娘を委ねると直ぐ様岸へ上がり任務へと戻って行ったという。

母と冬青から川に飛び込み彼女を助けてくれたのは徐令宣公爵であることを聞いた。
まだ会った事はなかったが、徐令宣候爵は腹違いの姉・元娘の夫だ。
十一娘は奇遇に驚いた。
私が人質になっているにも関わらず果敢に矢を射った人だ。
余程沈着冷静でかつ肝の太い人物なのだ。
お嬢様が何より大事な冬青は憤慨していた。
「海賊に向けて放った矢がまかり間違えば羅お嬢様に当たっていたかも知れません、公爵は冷酷です!」
十一娘は冬青を宥めた。
「確かに彼は冷酷だけれどその即断力がなければ私もどうなっていたか分からないわ」
十一娘は徐候爵を冷静に分析していた。
非情な面はあるが民衆を守る立場の将軍として、彼のとった行動は間違ってはいない。
陸に上がり追い詰められた海賊を逃がせばこの先もどんな手荒い真似をするか分からないのだから。

徐侯爵の計らいで巡防衛から連絡を受けた羅家は呂娘と十一娘を迎える馬車を出した。
羅家の馬車に乗り都路を進む道の途上に十一娘の刺繍の師匠簡先生が営む刺繍坊「仙綾閣」がある。
十一娘は遣いに金を握らせ仙綾閣へ寄り道することにした。

入ると店内で簡師匠が一人の乱暴者の男に絡まれていた。
都で悪名高い茂国公家の放蕩息子・王だった。
十一娘は機転を利かせ姉婿・徐令宣将軍の名を持ち出して不良貴族の王を上手く追い払った。

「十一娘!久しぶりね!」
「師匠、ご無沙汰しています。お元気でしたか」
二人は手を取り合って再会を喜び合った。
奥に通された十一娘は近況を報告すると簡師匠に今後についての心配を打ち明けた。
「今回呼び戻されても羅家での暮らしは楽ではないと思います。師匠、私の刺繍をここで売って頂けませんか?」
「勿論よ!貴女さえ良ければここで販売するわ!」
簡師匠は弟子の成長に目を細め、自立を目指すあなたを応援すると約束してくれた。

とうとう羅家に3年ぶりに帰宅した。
母・呂娘は悪い思い出しかない羅家の門をくぐることに怯えた。
だが羅大夫人は意外なほど優しい態度で親子を出迎えた。
新たに部屋を与え、十一娘がしっかりした娘に育ったと侍女の琥珀をさえ十一娘に与えた。
その様子を見て二姉は早速十一娘を妬んだ。
すぐ上の姉、善良な性質の五娘は十一娘とも仲が良いが、上の庶娘の二娘は相変わらず辛辣で意地悪で十一娘に身分を弁えろと牽制してきた。

自分達への厚遇や姉の言動から鋭く察した十一娘はこれから誰かに嫁がされることを確信した。
翌朝、娘三人が揃って大夫人の元へ挨拶にゆくと、長姉・元姉の嫁ぎ先・徐公爵家が3月に催す「春日宴」に連れていくと告げられた。
そこには徐家と親しい家の令嬢たちが招かれているという。

そのころ、徐家は長らく転戦していた令宣の帰還に沸いていた。
令宣は都へ帰るとまず登城し逃げ出した海賊の捕縛に全力を上げるなど仕事に没頭し、帰宅を待つ家族など二の次であった。
そのさなか、十一娘という一般人を巻き込んでしまった。
しかも朝廷では区家から海賊を逃がした件を責められる。
武勲により陛下から正二位に柵封されても令宣の気持ちはどこか晴れない。

やっと帰宅して出迎えた正室元娘は病が悪化しており夫婦の会話は弾まない。
早速押しかけて来た二人の妾達も令宣にとっては厄介事のように思われ彼の顔に笑みはない。
長らく留守にしたことで二人の子供達もどうにも懐かない。
特に正室元娘の嫡男諄はまだ幼いため、厳しい顔つきの令宣を畏れて近付かない。
さらには正室と妾の確執も会話の端々に伝わってくる。

家庭も令宣には安らぎの場ではなかった。

さて、妾達が帰っていった後、
夫婦はさらに険悪な空気になっていた。
令宣が皇帝からの恩賞を断ったからだ。
令宣は正義と政治的理想を追い求める男。
未だ海上貿易の解禁を果たせず貧しさから来る沿岸部の民の苦しみを思うと己だけが栄達を得られない。
元娘は感情的に令宣を詰った。
「貴方は民にばかり目を向けて私や諄の事を考えようとしない」
令宣は爵位や褒賞にばかり拘る妻に失望していた。
「元娘・・お前は変わった・・」

元娘の寝室を去る令宣の後ろ姿を見ながら彼女は羅家から付き従ってきた諄の世話係・陶乳母(トウママ)に不満を漏らした。
「旦那様は久々に会ったというのに優しい言葉の一つもかけてくれない。あの人は冷たい・・文姨娘の諭は頭が良く優秀だ。それに引き換え早産だった諄は身体が弱く学習も遅れている。このままでは世子としての諄の地位も危ない」
元娘の口から出てくる言葉は不安ばかり。
「私が死ぬ前に諄の未来を手配せねば・・」
もうすぐ羅家の母と妹達が来る。
元娘は死の予感と諄の将来を託すための策略を目まぐるしく張り巡らせていた。

[春日宴と喬蓮房]
徐家の屋敷は元々皇女仁和姫の住まいであった離宮を賜った広壮な敷地を誇る。
春日宴当日、羅家の女性の面々が訪れた。
姉との面会も果たした五娘と十一娘は宴が始まるまでこの広大な庭を散策する許しを得る。
その庭に、一人の美しい若い娘が人待ち顔で佇んでいた。
喬家の嫡女であり、その母親は令宣の母・大夫人(タイフーレン)の従姉妹だった。
彼女は喬蓮房(チョウ・レンファン)
蓮房(レンファン)が待ち伏せしていたのは、令宣だった。
蓮房は首尾良く軍務から帰って来た令宣に偶然を装って声をかけた。
だが令宣は礼節を弁えた軍人である。
未婚の娘と誤解を招く無用な接触を好まない令宣は挨拶を済ませると直ぐにその場を離れようとした。
蓮房は令宣を引き止めた弾みに裾を踏み令宣の胸に倒れ込みしなだれかかった。
その現場を散策していた十一娘たちが偶然目撃してしまった。
十一娘は令宣が姉というものがありながら他家の娘と逢い引きしていると誤解して令宣に反発を感じた。

宴が始まり全員が舞台のある部屋に集まった。
その舞台には令宣の実弟で遊び人の令寛が主役を勤めており来客を驚かせた。

元娘は病を理由に宴の席には顔を出さなかった。
そして若い娘が芝居に飽きた頃合いを見計らい侍女を通して令嬢達を庭園へと呼び出した。
二姉と五姉も芝居に飽きて飛び出して行った。

たまたまその場に残っていた十一娘が姉に呼び出され理由の分からないまま元娘に付き添った。

蓮房は令嬢達から一人離れて内院辺りを彷徨っていた。
令宣が礼儀上顔を出した後は宴の騒がしさを嫌って一人で過ごす習慣を知っていたからだ。
蓮房は上機嫌だった。
今日来た娘達の中で私が一番綺麗だわ。
候爵だってきっと気付いた筈よ。
満足気に扇子の内側で頬を緩ませていた。

そこへ侍女が盆に茶を載せて通りかかるがうっかり蓮房にぶつかり着物に茶をかけてしまった。
侍女は平謝りし蓮房に静かな内院(客間ではなく家族の住居)で着物を乾かして下さいと誘導した。
内院で上着を脱ぎ炉の前で着物を乾かしているとさすがに蓮房も不安になって来た。
その顔色を見ていた侍女が「ここには誰も来ませんから」と安心させた。
更に「お風邪を引いてはいけませんから着替えを持って来ます」と蓮房を置いて去ってしまった。
そこへ何も知らない令宣が入って来た。
令宣は襦袢姿でいる蓮房に驚いて咄嗟に部屋を出ようとした。
ところが、二人の前に元娘と十一娘が現れたのだ。

女が他家の主人の前で下着姿を晒していた。
純血と更には密通を疑われる罪である。
現場を押さえられた蓮房の名節は汚された。
羅十一娘という第三者の目撃者が現れたことで内輪の話として揉み消すことも不可能になった。
宴が終わった広間では取り乱した喬家母娘と妙に冷静な令宣夫婦が大夫人を前にして密談に及んだ。

元娘が大夫人の前で喬蓮房を告発した。
蓮房は内院で襦袢姿になり夫と居ました。

その事実だけで蓮房を不義の罪に問える。
元娘はこの事実を公にされたくなければ蓮房はいっそ夫の妾になればよいと迫った。
蓮房を野放しにすればいずれこの女は自分の死後当然のように継室に納まろうとするだろう。
それを阻止するには私の息のあるうちにこの女を妾にしてしまうしかない。
妾に身を落とせば正室にはなれない決まりだから。

つまり先の見通しがない元娘は肉を斬らせて骨を断つ戦法に出たのだ。
そこまで徹底しないと喬母娘から諄の将来を護れないと元娘は信じていた。

令宣は喬蓮房に対し「しばらくは都を離れろ。然るべき夫を探して嫁がせてやる」と提案した。
誰もがその提案に乗るべきだと考えたが、蓮房はその案を蹴った。
そこに居た全員が驚愕した。
蓮房は生涯令宣のそばに居たいと告白したのだ。
元娘はたたみかけた。
他所の旦那様を横恋慕していた事を告白したも同然だと蓮房を一刀両断し、妾に迎えるだけでも有り難く思ってくださいと嘲った。
見下げられても令宣と離れたくない一心の蓮房は計算もプライドも捨てて母親の嘆きをよそに妾になると決めてしまった。

蓮房の騒動に立ち会ってしまった十一娘は
大夫人から元娘の企みの共謀者と思われてしまった。
気の強い元娘が羅家の妹と共謀して蓮房を陥れたと。
宴の終わりに十一娘は大夫人から呼ばれ嫌みを言われる。

この見え透いた企みに令宣夫婦はさらに溝を深めてしまっていた。
「何故自分を信用しないのか。
自分は蓮房になんの気持ちもないのに。
相談してくれれば企みなど必要なかったはずだ」
しかし元娘は譲らなかった。
貴方は知らない。
大夫人の従姉妹とその娘蓮房が私の死を待っていることを。大夫人も密かに同調している事を。
貴方には分からないでしょう。
わたしがここまでする理由が。
諄が候爵家を継ぐ為には正室の座を蓮房に奪われてはならないのだから。
咳込み喀血しながらも元娘の執念は揺るがなかった。