都内の一等地に聳え立つ超と言う形容詞がいくつ付いても不思議ではない高級マンション。
その前にキョーコは旅行鞄を持って佇んでいた。
高級マンションと言うだけあって、ここに住まうは日本の政経済界を牛耳る人間とその家族だとか、毎年長者番付に名を連ねる芸能人などの所謂セレブな人間たちも暮らしている。
なぜ庶民代表の自分がここにいるのだと、やや現実逃避気味にキョーコは考えた。
いや、考えるも何も自分が担当する作家がここに暮らしているから来ている。理由はそれに尽きる。
が、敷居が高すぎて庶民の自分が簡単に足を踏み入れてもいいものかキョーコはしばし自問自答した。
しかし、弾きだされる答えは一つ。仕事ゆえ、ここに来たのだから足を踏み入れる外はない。
そもそも、ここに来た理由は数日前に担当作家から、「左手が腱鞘炎になったから、口述筆記しに来てね♡」と言う依頼(?)の電話があったから。
キョーコが担当する作家は、日本でも屈指の若手の売れっ子作家でありキョーコの勤めるLME出版からも新刊を出すたびに重版がすぐに出るほどである。
キョーコも学生時代、彼の作家のデビュー作を読んだ事があるが、緻密な心理描写に丁寧に取材を行ってあるのが分かる文章に大胆な作品構成。
1ページ捲るごとにぐいぐいと、読者をその世界に引き込む筆致には、何度も読み返したくなる物があった。
そんな、作家・《敦賀蓮》に会いたくて、就活の際、他の学生は色んな業種の会社を受けていたけれど、キョーコは敢えて出版社に絞った。
結果、とりわけ蓮の作品に力を入れているLME出版に無事就職することが出来た。
入社当初は、女性向きのファッション雑誌の編集部に入れられたのだが、半年前に蓮の前任の担当編集者である社倖一が、とある事情で他の作家に係りっきりになる事になり、後任の担当編集者としてキョーコに白羽の矢が当たった。
この時は天にも昇る心地で、就活の面接の際、蓮の作品に対しての情熱と愛を心行くまで滔々と良く語った自分!!と褒めたくなったのだけど、今はそれが悔やまれてならない。
基本、敦賀蓮は原稿を落とすと言う真似は決してしない。いつだって余裕をもって期日前に原稿を渡してくれるし、蓮の作品に関しては校正の必要が一体どこにあるのか甚だ疑問に思うほど完璧に仕上げてくる。
蓮があえて訂正して欲しくない箇所は、赤ペンで記入してくれているし、原稿の受け渡しの時にもきちんと説明してくれる。
だからキョーコの様な新米編集者が担当に就いても大丈夫だろうと、会社側は判断したのだと思う。
だが、そんな優等生な作家の蓮だが、私生活、特に食生活がとんでもなく杜撰である事をキョーコは知っている。
蓮は自宅を誰にも知られたくないのか、出版社との打ち合わせや原稿の受け渡しはホテルのロビーを使用している。これは蓮の前任の社だって同じである。
が、どこをどうしたものか、何故かキョーコだけはしばしば蓮の自宅に呼び出されるのである。
しまいには、「仕事でも仕事抜きでもどちらでもいいから、いつでも来てね♪」と鼻歌でも歌いだしそうな勢いで、じオートロックの蓮の部屋のカードキーまで手渡されてしまい、ほとほと困ってしまった。
社や文芸部の編集長の椹に相談しても、「いいから、持っておきなさい。」と言われるばかりで、キョーコとしては腑に落ちない。
カードキーを渡されてからと言うもの、何だかんだと言われては呼び出される羽目に陥ったのだ。
最初に蓮の自宅に行った時に驚いたのが、大きな冷蔵庫に酒と水以外何も入っていない事だった。
この時ばかりは、蓮に懇々と食生活がいかに大切であるかと言うことを説き伏せ、マンションの地下にある高級スーパーに蓮と買い出しに行ったのは記憶に新しい。
いや、自分は敦賀蓮の担当編集なはずなのに、と自問自答を繰り返し、気が付いてみれば買ったばかりの食材で料理をし、蓮に出していた。
当の蓮は、キョーコの作った料理を「美味しい、美味しい。」と言って、すべて平らげていた。
と言う事はどうでもよく、蓮からSOSの電話をもらった時、キョーコはすぐさま椹に相談した。が、返って来た答えは、
「蓮の原稿を落とさないようにな。何日かかってもいいから、口述筆記よろしく。」だった。
作家が缶詰になるのはままある事だが、その担当編集者が缶詰になるなんて、聞いた事がない。
色々あちらこちらに物申したいことは多々あれど、蓮の原稿をさっさと上げてしまわない事には、自分の身は自由になれないらしい。
腹を括ったキョーコは、蓮の住まうマンションに足を踏み入れたのだった。
《つづく》
出版業界のことは全く知らない(←毎度のこと)ので妄想onlyで書いております。
それ、現実と違うで!と言う事があっても、そこはスルーして下さるとありがたいです。