チベット密教の名僧
多田等観さんのご紹介
〜その1
岩手県花巻市の博物館では
多田等観展をやってて
そこで観るコトのできる
多田等観さんの
お写真からは
なんとも
白い月の光のよーな🌕
菩薩様のパワーを
感じた気がしていて✨
なんとも
現代日本に菩薩様のよーな
チベット密教僧が
いたことが
すごく愉快で😆
そーゆー
稀有な存在を
クローズアップ
したくて
色々と調べよーと
しているところですが📕
なんとも資料が
あまりないし☁️
等観さんのお孫さんの
佐藤伝さんが書いた本が
等観さんのお人柄が
よくわかる本なので👇
まずは
この本をたよりに📕
等観さんのお姿を
追ってみたいと
おもうのですが
よろしければご拝読ください!🙏
等観さんの悟り✨
等観さんが
人生で悟った✨
一つのルール
があって
それが
【わらしべ長者】ルール
とゆーものらしーけれども👇
等観さんが
お孫さんに
教えていたのは
【この世の仕組みが
知りたければ
わらしべ長者を
よーく読みなさい】
とゆー教え
だったみたいで
(ワラ〜⇒ハチ🐝⇒ミカン🍊⇒反物👚
⇒馬🐎⇒御屋敷🏯⇒結婚❤️⇒長者💰)
わらしべ長者に俺はなる
どーもその
【わらしべ長者ルール】
とゆーのは
以下のよーな
ものみたいで👇
現次元の生き方として
お金や地位や名誉などは
大した価値はなくて
この世で与えられた運命や
人生でおこる様々な出来事
にたいしては
🟦おこる出来事に
感動して(感情🔵)
⇒所有しない
(阿閦如来)
🟥アレコレ悩まないで
(思考#️⃣)
⇒片肘を張らない
(無量寿如来)
🟩この世を愉快に
(現次元🌈)
⇒みんなで仲良くやる
(不空成就如来)
🟧与えられたチャンスを
力を抜いてこなす
(タマシイ☀️)
⇒息を抜いて
リラックスする
(宝生如来)
🟨そーゆー
スタイルで
人に癒しを与えながら🌈
先に進めば👣
お金や地位や名誉を
かるく超えた
ホントーの幸い❤️🌀✨
をゲットできるよ✨
(大日如来)
とゆールール
らしーのだ👇
そしてこのルールは
与えられた場所で
🟩楽しく
🟧一生懸命に
🟦感動しながら
🟥悩まずに
🟨周りに癒しを与えながら
生きていると
🟪何かの
バックグラウンドの力🌀❤️✨
がはたらいて
結果的に
良い方向に
運命が開けていくから
与えられた運命を
ただありがたく
受け取って
なやまずに
進んだらいいよ👣
と教えてくれる
ルール
だとゆーのだけれども☝️
なるほどの密教感
まー
なるほど!
チベット密教が
見え隠れする
ルールだなー
とかおもったけども
このルールのよーに
実際に等観さんは
人生を歩んだし
お金には
全くこだわらない人だったし
財産もみんな
人にあげちゃうもんだから
お金はないし
物もないし
名声は外国とかでは
かなりあったけど
国内では全くないし
清貧で☀️
温厚で🔵
知的で#️⃣
他人寄りの🌈
マコトに尊敬できる
稀有の密教僧
なんだけれども
それにしても
世界に誇る宝物とも呼べる
仏画と🖼️
仏典を📜
日本にもたらしたし
本人も
チベット密教の奥義を🔺🌀
会得していたみたいだから✨
モノとココロの両面で
ホントーの意味で
わらしべ長者になった
ひとだったなーと
つくづく
チベット密教好きの
ワタシなどはおもうから
ココロから尊敬できる
同郷の天才なんだけれども
等観さんの人生から学ぶ
上のよーな👆
【わらしべ長者ルール】は
二人しかいないお孫さんのうち
男の子だった
佐藤伝さんにのみ
伝えていたみたいだけれども
このわらしべ長者のよーな
【転換点】の連続が
等観さんの
人生そのものみたいで
ホントーのしあわせを
ゲットした
等観さんの人生には
とても学ぶモノが多いし
【わらしべ長者には
チベット密教の秘密
そのものが含まれている】
とゆー
なので
等観さんの教えとか
人生の【転換点】
とかをひもとくためにも
等観さんの生き方を
時代を追って
みていきたいのですが
転換点1 仏教との縁
等観さんは
1870年に秋田市の土崎とゆー
海のすぐ近くの町で生まれて
西船寺とゆー
お寺さんが実家
のよーなんだけれども
ここに等観さんのお墓もある
らしーので
この夏に
お墓参りにいこーかなー
とかおもっているところですが
等観さんの家(お寺)には
子どもが8人いて
等観さんは3番目で
家はとてもビンボーだったらしく
お父さんを
助けるために
小さい時から
お経上げをして🙏
手伝ってたとゆーから
等觀さんの
仏教との縁
は🙏
この時代に
つくられたみたいだなー
🟦なので
転換点1は
仏教との縁🙏
とゆーアタリかなー
🙏⇒
転換点2 真面目に働く
等観さんは
アタマのいい人だったけれども
家が貧乏だったため
旧制中学には遅れて入ったよーで
学校を卒業後は
お坊さんになるための修行
だったとおもうけど
京都の西本願寺に
行かされたみたい
西本願寺では
等観さんは
真面目によく働いた
みたいで
法主の大谷光瑞からも
アタマの良さや
法要などでのテキパキとした
仕事ぶりが認められて✨
1910年前後だとおもうけども
チベットからの留学生3名の
世話役と日本語を教える教師役
をあたえられたみたい
なので
転換点2は
真面目に働いていたら
認められちゃったよ
とゆーアタリかなー
🙏⇒卍✨
転換点3 チベットとの縁
チベットの留学生のお世話や
日本語教師として
やはり真面目にやっていた
等観さんだったけど
チベット語とゆー
大きな壁に逆らわずに
流れに乗るよーにして
日本語とチベット語の比較と
研さんをすすめていって
自然と
チベット語をマスターした
アタマのいい等観さんだったけど
逆にチベット人には
ネイティブの秋田弁を
仕込んでしまい
何を言ってるのかわからない
日本語?をチベット人が話す
よーになってたみたい!
こさけ これけ いっぺけ
かねなが? けばいのに
とかはワタシにはわかるけど
フツーの人にはわらかない
とゆーアタリか?
※答え:
ここに来て これを食べなさい
いっぱい食べなさい あれ食べないの?
食べればいいのに
こーゆー秋田弁を話しても
ホボホボ伝わらないだろーから
教師的にはダメだったみたいだけど
チベット人留学生との
密接な交流により
チベットの風習や
チベット語を習得したので
なので
転換点3は
真面目にお世話をして
チベット語をマスター
しちゃったみたい
とゆーアタリかな?
🙏⇒卍✨⇒👄
転換点4 留学生との旅
1911年(明治44年)
等観さんが21才のときに
中国で孫文による
辛亥革命が起こり
西本願寺のチベット留学生に
帰国命令が入ったんだけれども
帰国にあたっては
当時のチベットの国情もあり
日本から🇯🇵インドへと🇮🇳
一旦行く必要があったみたいで
等観さんの人柄も
とーぜんあったとおもうけど
留学生の立っての願いで🙏
等観さんが
ツアーコンダクターに
指名された🚩
インドまでは🇮🇳
船による長旅だったと
おもうけど🚢
留学生たちの
等観さんに対する信頼感や
西本願寺のバックボーンも
インド行きのキッカケには
なっただろーけれども💰
なにより
明治期にインドまで
旅行できてしまう強運さは
すごいなーとかおもった
インドまでの
四人での船旅は🚢
観光気分とか
若者どーしとか
チベット語が話せるとか
いろんな面で
さぞかし
たのしー旅
だったろーけど
なので
転換点4は
チベット語が話せるから
インドまで来ちゃったよ
とゆーアタリかな?
🙏⇒卍✨⇒👄⇒🚢🇮🇳
転換点5 ダライラマと謁見
当時のインドには🇮🇳
チベットへの清軍の進攻により
多くの僧侶が避難していて
チベットのトップの
ダライ・ラマ13世も👑
インドに🇮🇳
避難していて
留学生を
送り届けたからなのかな?
偉大なるダライ・ラマとも👑
偶然に謁見できたみたいで
その謁見時に
ダライ・ラマが👑
等観さんを見て感じたのが
⬜︎チベット式のお辞儀などの
挨拶の所作が
キチンとしている⭐️
⬜︎チベット語を
キチンと解しているし
話しができる⭐️⭐️
⬜︎チベット留学生との
打ち解けあんばいから
チベットとの
相性がある⭐️⭐️⭐️
など
それ以外にもチベットが
置かれている政治的な背景とか
もろもろの要素も
あったろーけれども
ダライ・ラマからは
とても気に入れられた
みたいで❤️
「近い将来に
チベット密教を学びなさい」
とゆーお言葉と
「トゥプテン・ゲンツェン」
とゆー修行名も
ダライ・ラマから
直々に命名してもらい
「いずれラサにきなさい」
とゆー指令も
旅行許可証と共に
もらったみたい
ちなみに
トゥプテンとゆー名前は
ダライ・ラマの本名の一部
らしくて
この名前をもらえたのは
後にも先にも
等観さん以外にいなかった
ので
チベット人僧侶の
驚きとか
やっかみ
があったみたいだけども
ダライ・ラマには
等観さんの才能が
みえていたから
大事にあつかったんだろーなー
とかおもった
このころは
チベット自体が
清の統治から脱して
新たな独立国家体制へと
移行しよーとする
激動期にあったから
偶然だったのか
必然だったのか
そーゆー時代の流れに
巻き込まれたのも
転換点のひとつになったかなー
ともおもうけど
等観さんいわく
「偶然はないし
必然で進むけど
それを
わらしべ長者のよーに
受け入れて
なるべく
愉しむのが大事」
と口ぐせのよーにいってた
みたいだから
ここまでの
タイミングの良さも
必然である
とゆーことになるだろーけど
等観さん自身の
チベット密教との
前世からの因縁も
あったよーな気がするなー
そーゆー意味では
等観さんは
なんともおもしろい
運命の持ち主なのだ
なので
転換点5は
インドでダライ・ラマに👑
気に入られちゃったよ❤️
とゆーアタリかな?
🙏⇒卍✨⇒👄⇒🚢🇮🇳⇒👑❤️
転換点6 苦行で悟る✨
辛亥革命の後に
チベット軍は奇襲により
チベットに駐屯していた
清国軍守備隊を
チベット内から追い払って
ダライラマ13世も
1913年にインドから🇮🇳
ラサに戻ることができて
ダライ・ラマ政権を確立して
世界的にもチベットは
独立国として承認されたんだけども
このころ等觀さんは
西本願寺の大谷光瑞からも
チベット入りして現地調査せよ
とゆー命令も受けたみたいで
前からの
ダライ・ラマの指令
もあったし
インドからの
チベット入りする方法を
模索していたみたいで
とゆーのも
この当時インドは
イギリスが支配していたから🇬🇧
インドからのチベット入りは
余程でなければできない状況だった
みたいで
等観さんは不法入国を
何回か試みたよーで
イギリス軍に顔写真が📷
出回ってしまったらしく
いろいろな障壁があって
一年が経過してしまった
フツーだったら
あきらめるよーな
逆境のなかで
真面目な等觀さんは
ダライ・ラマからの指示と
大谷光瑞の指示を守るため
ブータン側から🇧🇹
現地人になりすまして
強行突破を
こころみることにした
しかし
当時のブータン人は🇧🇹
貧乏な身なりと
靴を履いていない🦶
生活をしていたから
現地人になりすますには
靴は履かずに🦶
ゴロゴロ石と🪨
イバラの生えてる🥀
長い悪路を
裸足で歩くハメになった🦶
しまいには足裏の皮が🦶
ボロボロになって
血まみれになり🩸
傷の痛みで
ホボホボ歩けなくなって
しまったよーだ🦶🩸
しかし
高地への登山による⛰️
低酸素で高山病にも
なってたから
等観さん的には
一歩の痛みで🦶🩸
意識を回復できたから
前に進めたし👣
その場で野垂れ死にせずに💀
すんだので
ラッキーだった
とかいってて
このとき
以下のよーな悟りを得た✨
みたい
悩みや🏴
苦しみや🏴
痛みや🏴
ココロのゴモゴモは🏴
一時のもので
自然は
まるまる
生そのものを
悦びとするし🚩
長い目で見れば
結果オーライとなる
コトもあるから🚩
今を愉しみ(タマシイ☀️)
感動して(感情🔵)
悩まないで(思考#️⃣)
愉快に(現次元🌈)
進めば👣
必ずよくなる✨
とゆー悟りを得たみたい✨
苦しいー中での
この悟りが✨
【わらしべ長者ルール】
につながっていったよーで
そーやって
苦行を愉しみに変えて
徒歩で一ヶ月かけて
ヒマラヤ山脈をこえて👣
よーやくチベットに
ボロボロになって
たどりついた🏁
現地でチベットの人に
ダライ・ラマから
お誘いを受けたといって
通行許可証をみせても
偽造したもんだろうとか疑われて
相手にされなかったみたいだけど
ボロボロになりながらも
苦行を🏴
遊行と🚩
感じながら🌈
チベット入国をはたしたので
等観さんは
いろんな意味ですごいなー✨
と思った
なので転換点6は
苦しみを🏴
愉しみに🚩変えて
進んだら👣
なんとか
着いちゃった🏁
とゆーアタリかな?
🙏⇒卍✨⇒👄⇒🚢🇮🇳⇒👑❤️⇒👣🏁
以上のよーな
わらしべ長者のよーな生き方
の等観さんについては
また次回続きを書きますので
よろしければご拝読ください🙏
ご縁に感謝いたします⭕️
それでは!また👋