宮澤賢治と法華経についての
ご紹介〜その1
宮澤賢治は、
とても有名な作家ですが
昔から、銀河鉄道の夜とか🚂
雨にも負けず☔️の詩とかの
デクノボーの世界観に
惹かれていたんだけど
今回、雨ニモマケズの詩と、
法華経と比較してみたら
面白いカタチが見えてきたので
ダラダラしたブログですけど、
🟦 雨ニモマケズ☔️
賢治さんの詩で、
「雨ニモマケズ」は
ワタシがいうまでもなく
スゴイ有名な詩なんだけども
この詩が書かれた意味や背景には
法華経の菩薩様たちの
マンダラ観や宇宙観が
秘められているよーな気がしていて✨
そーゆー法華経の深ーい内容が
見え隠れする気が最近するんだけども⚡️
🟦遺言のよーな詩✍️
「雨ニモマケズ」は賢治さんが
晩年に書いた詩で
⬜︎漢字まじりのカタカナで書かれていたり
⬜︎誤字が混じってるので論争を引き起こす
くらいよく読まれていたり
⬜︎最後に南無妙法蓮華経と仏様が書かれて
いたり
⬜︎詩はリズミカルだけど、
全体の構成がなんだか気になるモノ
なんだけれども
🟦全文や原文を以下のよーにみていくと
雨ニモマケズ🟦
風ニモマケズ🟥
雪ニモ🟩
夏ノ暑サニモ🟧
マケヌ丈夫ナカラダヲモチ🟨
慾ハナク🟧
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカニワラッテ
ヰル🟦
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ
野菜ヲタベ🟨
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ
入レズニ🟩
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ🟥
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ
小屋ニヰテ🟨
⬛️東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ🟩🟦🟧
⬛️西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ
稲ノ朿ヲ負ヒ🟧🟥🟩
⬛️南ニ
死ニサウナ人アレバ
行ッテ
コハガラナクテモイヽ
トイヒ🟦🟧🟥
⬛️北ニケンクヮヤ
ソショウガアレバ
ツマラナイカラ
ヤメロトイヒ🟦🟩🟥
ヒドリノトキハ
ナミダヲナガシ
サムサノナツハ
オロオロアルキ🟧🟨
ミンナニデクノボート
ヨバレ🟩🟨
ホメラレモセズ🟦🟨
クニモサレズ🟥🟨
サウイフモノニ🟦🟧🟨🟩🟥
ワタシハナリタイ🟨🌀
🟦南無無辺行菩薩
🟩南無上行菩薩
🟦🟨南無多宝如来
🟦南無🟧妙法🟥蓮華🟩経
🟥🟨南無釈迦牟尼仏
🟧南無浄行菩薩
🟥南無安立行菩薩
雨ニモマケズの発見👀
🟦「雨ニモマケズ」は、
賢治さんの死後になって手帳に
書かれているのを発見されたモノで、
生前は誰の目にも触れていなかったし
賢治さんが遺書のよーに遺した
最後の詩なんだけれども
🟦この手帳は、
弟の清六さんが賢治さんの亡くなった
翌年に開かれた会合で、
持参した遺品のトランクの中から見つけて
公開したのが最初らしい
手帳に書き残した理由は?
🟦なんでメモ帳に「雨ニモマケズ」を
書いたのかについては、
急な発熱で倒れた時に、
症状が思ったよりも深刻だったため、
何かあった時のために、
まるで遺書のよーにして
手元にあった手帳に
詩を書き記した
と言われているみたいだけど
🟦やっぱり、最後には、心底から信奉する
神様や仏様なんかに祈願したくなるのは
ヒトの常なんだろね
なんで仏様がでてくるの?
🟦雨ニモマケズの最後の部分には
南無妙法蓮華経とか、
法華経に関わる地涌の菩薩様たち
とか書かれていて
🟦一般的にはこの詩の評価は、
法華経の精神にもとづいていて
人のために労を惜しまず、
評価されることに重きを置かない
とゆー内容が仏教に通じるんだよ
というセツメーがされてるよーだけど
🟦ワタシには、雨ニモマケズの詩は、
法華経に出てくる
四菩薩の働きを
マンダラのよーに表したモノ
とゆー直観がひどくするのだ⚡️
🟦 🟥 🟩 🟧 🟨
🟦そーゆー視点で、ブログの中で、
雨ニモマケズの詩を
ムリかもしれないけど細々と
法華経と比較して解読していこうと
思ってるんだけど
🟦賢治さんの生涯について
🟦ちなみに、
賢治さんの生涯についてザッと見てみると
🟦賢治さんは、
おしくも37歳で若くして亡くなった
天才の詩人、童話作家で
🟦1896年から1933年までの
明治期から昭和の初期までの激動期に生きた
ヒトで
🟦明治29年に、宮澤家の2男1女の長男
として、岩手県花巻市で生まれて
小さい頃から本や童話が好きで📙
鉱物採集も好きで🪨
昆虫の標本に熱中している🐞
よーな子供だったみたいで
🟦生家の宮澤家は、
古着とか新古品を大量に仕入れて
店でさばいたり、
株式投資でも成功していたり
近隣に多くの小作地も所有するよーな、
花巻のお金持ちの家柄だったみたいで
🟦賢治さんは、
貧しい暮らしをしているヒトに共感できる
やさしいココロの持ち主だったから、
自身の家ばかりが儲けて、
それで自分が何不自由なく生きていることに
疑問を感じていたみたい💰
🟦賢治を跡取りと決めていた父親は
商人に学問は不要だと言って
スゴイ優秀だった賢治さんが、
学問をするコトを認めなかったし(結局
進学は認めてくれたんだけど)
賢治さんとは意見がずーっと死ぬまで
合わなかったヒトだったみたいだけど
🟦18歳までの賢治さんは、そんなんで
悶々として店番を手伝いながら、
おかげでいろんな本を読むコトができた
みたい📙
そんでもって18歳のこの時期に、
人生を変えてしまうコトになる本と
出会うのだった
🟦法華経に夢中になるドー!
🟦その賢治のココロを揺り動かした本は、
島地大等の漢和対照妙法蓮華経
という仏教の経典の和訳本であった
🟥島地大等は、
浄土真宗のお坊さんで学僧だったのかな?
駒澤大や、立正大や、東洋大、
最後は東大でインド哲学を教えるよーな
優れた学者で
🟥賢治は、そんな島地が若いコロに書いた
法華経の本を読んだ時に
🟥その中の「如来寿量品」に、
体が震えるほどの感銘を
受けたとゆー
🟦如来寿量品にカンドーだどー!
🟦その、如来寿量品については、
またあとで法華経のテキトー解読の際に
くりかえし、ご紹介したいとは思いますが、
ポイントだけ紹介すると
地の底から現れた地涌の菩薩
たちとゆーのは、
悟りを開くために仏の教えを
学びその境地に達したモノで
その境地とゆーのは、
「この世に存在するものは、
生ずるコトも滅するコトも
ない」とゆー真理であり
その真理を体得し、
真理と一体となるなら
永遠の生命と一体となるし
仏様は自分自身となるよ
とゆーダイナミックな教え
のよーだな
🟦こーゆー
宇宙的な法華経の世界観に
感動した賢治さんは
たちまち在家の法華経信奉者
になったよーだ
🟦それにしても、
法華経は確かに素晴らしい教えだし、
賢治の作品の中にも、
法華教の世界観が現れているとか
いわれているけど
🟦まあ、賢治自体、幻視能力があった
変わったヒトだったみたいだから
幻想的な作品のベースが
全部が全部、法華経とゆーコトでもない
とワタシはおもうんだけれども
🟦学生時代の賢治さん
🟦ちなみに賢治さんは、
スゲー優秀な学生さんだったみたいで
19歳のときに盛岡高等農林学校(現岩手大
農学部)に首席で入学して、
学費を免除されるよーな優秀な学生で
🟦22歳のとき、優秀な成績で卒業し、
研究生となり助教授になるよーにとの
推薦をされた
🟦父親は戦争に行かせたくなかったから、
兵役免除となる助教授の道に、是非とも
賢治さんを進ませたかったよーだけど
助教授の仕事に興味をもてなかったし、
自ら徴兵検査を受けるよーな、
逃げないマジメな賢治さんだった
🟦ウィトゲンシュタインさんも
そーだったけど、
天才は何を考えているのかわからない
トコロがあるから天才なんだろね
🟦しかし、体が弱かった賢治さんは、
兵役を免除されてしまった
🟦この時、
彼は長く生きられないと直感していて、
この年に知人に対して、
「私の命もあと十五年は
ありません」と語っていたとゆー
🟦実際のトコロ、賢治さんは37歳で
亡くなっているから、
ピタリと予言していたコトになるので
やはり変わったヒトなのだ
🟦この辺りから食事が
菜食主義に変わっていたみたいだな
菜食主義者とゆートコロも
ウィトゲンシュタインさんと同じだな
🟦23歳で上京
🟦23歳の時に、賢治さんの良き理解者で
あり、体が弱かった妹のトシ子さんの
看病のために、
🟦母とともに上京し、
病院の近くの旅館に泊まりながら、
図書館に通ったりして、
将来について考え始めたとゆーから
やっぱり金銭的な余裕のある家柄であった
からそーゆーコトができたんだろーね
🟦このころ父親にあてた手紙の中で
東京に移住して宝石の研磨や、
人造宝石の製造などの事業を始めたい
とゆーよーなコトを申し入れしたよーだけど
実現性がないと反対されたりするよーな
軽くしくじり加減の賢治さんなのであった
🟦激動の24歳
🟦パワーあふれる24歳の頃、
退院した妹と花巻へ帰り、
嫌いな家業を手伝う生活が始まるんだけど
🟦この頃、
東京で仕入れた「便利瓦」とゆー
布にアスファルトを塗ったようなものを
販売したら、
スゴイ売れたもんだから、
その儲けでレコードとか本なんかを購入した
らしい
🟦国柱会に熱中するどー!
🟦賢治さんは、24歳の時に、
田中智学創設の在家仏教団体で
純正日蓮主義を奉じる右派だった
「国柱会」に入信した
🟥国柱会の名称は、
日蓮の三大請願の一つである
「我日本の柱とならん」によったモノで
🟥会員には石原 莞爾、高山 樗牛などが
いたよーだけど
🟥国柱会の根本の理念は、
檀家制度によって形骸化した
伝統宗門の改革と近代化を
在家主義の立場から目指すもので
🟥現代も小規模ながら存続する団体の
よーだけど
🟥八紘一宇という言葉は、
軍国主義のスローガンであったかのように
現在では言われているけど
🟥八紘一宇というコトバを造語したのは
田中智学だったらしい
🟥その本来のイミは、以下のよーなもの
だったらしー
🟥人種も風俗もノベラに一つにするという
のではない、白人黒人東風西俗色とりどり
の天地の文、それは其儘で、国家も領土も
民族も人種も、各々その所を得て、各自の
特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を
織り成して、中心の一大生命に趨帰する、
それが爰にいう統一である。
🟥このイミは、
皆仲良く手を取り合って、
それぞれが部分として
全体を形作りながら
中心で生き物のよーに
統一的に存在するよーな
世の中にしたい
とゆーコトのよーなので
素晴らしい思想であると思った
🟦賢治さんが、法華経に惹かれていった
ベースにあるのは、
国柱会のこーゆー思想部分も、
あったのかもしれないな
🟦賢治さんは、田中智学の
本化妙宗式目講義録全5巻を読破して
国柱会に入信して
🟦法華信仰を強め、寒修行と称して、
花巻町内を太鼓を叩き題目を唱えながら
歩くとゆー活動もしてたみたい
🟦浄土真宗の父とは、そんなんだから、
激しい口論を繰り返したよーだ
🟦25で家出をするどー!
🟦25歳の頃、
賢治さんは国柱会でどーしても活動を
したくなり、
🟦1月23日夕方、東京行きの列車で
家出をして、
翌朝、上野駅に到着して鶯谷にあった
国柱会館を訪ねてみた
🟦「下足番でもビラ張りでもする」と
必死に頼みこんでみたけど、
応対した国柱会の者から
文学によって仏教の真理を表現することも
信仰の一つだ
というサトシのよーなアドバイスを受けた
🟦信仰心を童話にするドー!
🟦それでもなお、あきらめきれず、
法華経への信心もあったからか、
東京の父の知人の小林六太郎家に
身を寄せて小林家に下宿しながら、
東大赤門前の文信社という印刷所で
アルバイトをしながら
アドバイスどーり、
法華文学の創作に取り組み、
一か月で三千枚もの童話の草稿を書いた
とゆーからスゲーな
🟦賢治さんが生きているうちは、
その童話も売れなかったけど
その創作のエネルギー源は、
信仰からくるモノであったろーし
童話の世界観が開かれた貴重な時期で
あったろーし
🟦食事はジャガイモと豆腐と油揚げとゆー
質素さで(この辺りもウィトゲンさんと
似ているな)
🟦夜は国柱会館の講話を聞き、
昼間の街頭布教にも参加したりした
🟦この時期は、
賢治さん的にはすごく充実した時期だった
🟦しかし、父親的には社会的にかなりの
しくじり具合だなとおもっただろーし、
心配で小切手を送ったりしていたみたい
だけど、賢治さんはこれを要らないと
送り返したよーだ
🟦心配した父親は、
賢治さんの視野を広げよーとしたのかな?
4月になって賢治さんと、
伊勢や、比叡山、奈良を旅したよーだ
この旅の中の説得でも、
賢治さんの法華経と国柱会への信念は
変わるはずもなかった
🟦この年の8月中旬になって、
妹の病気が悪化したコトで
た
賢治さんの夢のよーな?東京生活は突然
終わりを告げた
🟦大切な妹さんのために、
原稿をトランクに詰めて
花巻に戻る決心をした賢治さんであった
🟦学校のセンセーをやるどー!
🟦25歳の12月3日に岩手県立花巻農学校の
教諭となった賢治さんなんだけれども
しくじり加減のトコロや、
時代的にもウィトゲンシュタインさんが
先生をやってた時期とかと重なるんだけど
ウィトゲンさんと賢治さんは運命が似たモノ
同志だったのかな?
重なり加減が面白いんだよね
🟦 🟧 🟥 🟩 🟦 🟧 🟥 🟩
とまあ、
ブログが少々長くなったので、
次回も賢治さんの生涯の続きを
書きますので、
よろしければ読んでみてください🙏
それでは、また!👋