ウィトゲンシュタインさんの
論理哲学論考のご紹介〜その8

ウィトゲンシュタインさん(略して
ウィトゲンさんと書いてます)の哲学とか
生涯とかの紹介を書いてますけど

ダラダラしたブログですが
よろしければ読んでみてください🙏

ウィトゲンさんの生涯〜教育に取り組むぞー編

🟦30 教育のカタチをふるいおとすかのよーに先
生をやってみる

🟥⑴ センセーの資格を
 とるぞー
戦時中にトルストイにハマって
清貧に生きること
自分に求めていたウィトゲンさんは、

捕虜収容所で友達になったヘンゼルという
教師から
教育の可能性のハナシを聞いて
哲学と同様に教育に興味をもった⚡️


1919年8月時計
捕虜から解放されて自由の身となった
ウィトゲンさんは、

その1ヶ月後にはウィーンに戻り
30才で教員養成学校へ通ってたみたい
だから、

よほど
センセーになりたかった
んだろーなー

この時期は、ラッセル先生とハーグで対談
する前だから、この頃から哲学の道は
歩まないとキッパリと覚悟ができてたコト
になるな!


しかし、お金持ちの家に生まれたのに、
莫大な遺産を相続を放棄したり、
友達にポンと遺産の一部をあげたりしてる
もんだから、お金がとにかくない💰

ウィトゲンさんは
お金は有害なシロモノだ
とおもってたらしく、
遺産全部をこの年に兄姉に委譲した

なので、
極貧の中で教員免許をとる羽目になって
スゲー苦しい思いをしていたらしい

この頃、ウィーンの安い下宿を転々として、
金もないし、将来への展望もなく、
勤務先にも不安が残る、暗黒の日々を送って
いたみたい☁️


この頃のウィトゲンさんのコトバが

わたしにはもう中学生のように振る舞うこと
はできない、
そして屈辱の思いはわたしにとって
この上なく大きく、
こんなことに耐えられるとは信じられない
ほどだ
とか

一番いいのは、たぶん、ある晩横になって
二度と目覚めないことだ
とかボヤいているのだ

それでも極貧に身を置くトコロが
ウィトゲンさんの生き方なのだ

1920年7月時計
10ヶ月に及ぶ暗い生き地獄?を経て
やっと教師の資格証明を取得することに
なったウィトゲンさんであった


🟥⑵ センセーをやるどー

1920年9月時計
小学校教師としてオーストリア山麓にある
小さな寒村であるトラッテンバッハとかで
小学校の臨時教師として着任した


そもそもはもうちょっと都会で採用される
はずだったんだけど、
トルストイが描いた農奴の生活への憧れから
自分で寒村を選択したのだった

ここいらへんが間違いのはじまりなんだ
けども

極貧の中で教育の理想を
追求するためのチャレンジを
はじめたウィトゲンさんだった

ウィトゲンさんの小学校の先生時代は、
清貧を貫くこと自分に課していた

下宿の部屋には、ちょこっとの調度品と、
水差し、洗面スタンドなんかしかない
小さい部屋で生活してた

生活ぶりはひどく質素なもので、
友達が訪ねてきたときには、
堅いパンとバターとココアでもてなした
という変わりぶりであった

そんなウィトゲンさんは、
最初の頃は学校での仕事に喜びを感じて
はりきってたみたいで

教師としても、哲学に向かうときと同じく
最大限の情熱を傾けて、
自分なりの学校改革をしようとしていた
みたい


生徒に対しては、リアルな世界を体験させる
ため、遠足で生徒を連れ出して
自然を体験させたり

自分で持ってきた顕微鏡で、
花弁をその場で観察させたり

動物の骨の標本を自分で作ったりして、
直接得られる感覚を大事にしたり

社会見学とかをさせて、実地で体験した
コトを発表させたりして経験や学習の幅を
広げたりした

また、シラーとかの詩を暗誦させたり、
本物の芸術にふれさせたりして

いろいろ工夫して、経験的に学問を
染み込ませるよーなスタンスで授業を
やってたらしい

また生徒に自由に作文をさせて、
誤っている箇所を自分たちで発見させる
というグループ形式の授業スタイルを
採用したりした

使ってるコトバが田舎なので公用語に
修正する必要があったけど、

なかなか自分たちでは気づけないナマリが
あったから、そのためだったらしいけど

そーゆー画期的な学習スタイルを採用した
みたい

この頃に、子供向けの言葉の学習に役立つ
よーな事典なんかも書いて出版してた
みたいだな


こうしたコトバのやりとりの実体験は
ウィトゲンさんに

コトバは人間関係の内でなされるゲーム
みたいなモノである

という新発見をもたらした

このことが、ヴィトゲンさんの中で
固定されてた「論考」の論理形式という
考えを修正するコトになったという


🟥⑶ センセーをやめるどー

しかし、その同時としては
革新的な学習スタイルだったし、
子供受けは良かったんだけど

その親にとっては、
農家で人手が要るのに、
遅い時間まで子供を連れ回すし、

気に入った子供だけ、放課後遅くまで
特別授業を行う差別をするし、

保守的で、排他的な風土のある
ウィーンの山間の田舎町では、

革新的で、ユニークで、はみ出し者の
どこの馬の骨かもわからないよーな
陰気な顔をした先生を受け入れる余地は
まったくなかった

とーぜんに忌み嫌われたウィトゲンさんは
とんでもない新米の変人教師とゆー
レッテルを貼られて嫌がらせを受けた

肉を食べなかったウィトゲンさんの重要な
タンパク源であった乳製品を買うことが
できないというイジワルにあったのだ

ウィトゲンさんがラッセル先生に宛てて
書いた手紙にも、ずいぶんと憤慨した
コトが書かれていた


生徒からの信頼はあった先生だったみたい
だけれど、

ウソを極端に嫌うトコロがあった
ウィトゲンさんは、情熱的だけど差別的で
倫理観がすごい人柄災いして
ある問題行動を起こしてしまう

1926年の時時計
月の名前が全部言える者は手を挙げてと
言って手を挙げさせて

その中で答えられなかった生徒を
嘘を言ったとして平手打ちしてしまったのだ

この頃は、体罰はまあ普通にあったらしい
けど、大抵は言うことを聞かない子供に
対してわからせるためのモノだったのに

よりにもよって、体とココロの弱い子供に
対して平手打ちをしちゃったのだ

まあフツーにダメだろーとはおもうけど
ヒトの嘘は許せないのがウィトゲンさんの
変わったトコロなのだ


そんでもって、
この生徒が体罰で失神したという事件を
おこしたもんだから(この子はひどく
体の弱い子で二年後に白血病で亡くなって
しまう)

この事件があって親から訴えられるコトに
なり、これを機にウィトゲンさんは、
さっさと教職を辞めることになった

まあ辞める時もサッパリとしたもん
だったんだろーなー

先生時代のウィトゲンさんは、
宮沢賢治みたいにオーストリアの山村で
理想の生きた教育のカタチを模索しながら

周囲の理解を得られずに、
深く悩むこととなったのだ


🟥⑷ 賢治と似ているカタチの
 ウィトゲンさん

ウィトゲンさんは真剣に生きすぎて、
体と心をボロボロにしながら、
全力疾走するトコロなど、
宮沢賢治っぽいところがあるのだ!

賢治とウィトゲンさんの似ている点について
今回のメリッサ読書会でも、プレゼンを
したんだけど

なんだかいろいろ似ているカタチがあるので
ビックリするのだ

①活躍した時代が同じ

ウィトゲンさんは1889〜1951に生きて
1920〜1926までオーストリアの農村で
小学校の先生をしてたんだけど

宮沢賢治も1896〜1933まで生きた同世代の
ヒトで、
1921年〜1926まで岩手県立花巻農学校の
先生になってるのだ!

あれー?先生やってる期間がスゲー似てる
な!偶然かな?

②先生をゴタゴタがあって
辞めた時期や感じも同じ

先生を辞めるコトになった理由も、
ウィトゲンさんは上記の理由だし

賢治も一説には、岩手国民高等学校の上司
と農業経営なのか学校経営なのか分から
ないけど、
上司と議論したことが原因で三月に突然
退職届を提出して辞めたという説もある

なんだか学校でのゴタゴタに巻き込まれて
自分の理想を貫けなくなって、
スポンと抜け落ちるよーにやめちゃった
ところが時期も含めてスゲー似ているのだ

③辞めた後も才能に溢れてる感じも同じ

そして、辞めた後でなんの構想もなかった
けど、才能には溢れているトコロとかも
似てるし

④コトバに魅入られているトコロも同じ

賢治はオノマトペ的な言語の革命的な
世界観が有名だし、詩も良いし、
その作品で言語の限界を超えようとしたし

ウィトゲンさんも、言語に限界を感じて、
言語の限界を超えたところに、
真善美の世界と線引きをしたトコロとか
言語に魅入られてたトコロが似ているし

⑤理系と文系のハイブリッドな感じも同じ

また、賢治は科学と文学の両方とも
優れていて、作品にも科学的な表現が
でてくるし


ウィトゲンさんも、工学と哲学の両方に
優れていたし、
コトバに対するアプローチも論理学を使用
するところなど似ているし

⑥女性を遠ざけたトコロも同じ

賢治もウィトゲンさんもモテないわけでは
なかったけど、生き方として生涯結婚を
せずに女性を遠ざけたので似ているし

⑦親が裕福な感じも同じ

どちらの親も裕福でお金には困らなかった
ろーけど、晩年は家に頼らないで貧困生活
を良しとしたカタチも似ているし

⑧兄弟の死にココロを痛める感じも同じ

どちらも若くして亡くなった兄妹の死に
ココロをひどく痛めたカタチまで似ているし


⑨作品に宗教的なカタチが込められているトコロも似ている

どちらも宗教を厚く信奉したり
作品や論文を生み出すために
一生懸命になったりした
純粋な求道者みたいなタマシイだったし

⑩ 死に際がサッパリした感じも同じ

どちらも、死に際でデクノボー感とか
サッパリとしたもんだったし

従軍体験は宮沢賢治にはなかったろーけど
いろんなカタチが似てる気がしてきた!


何より、今回のメリッサ読書会でも
紹介したけど、

銀河鉄道の夜の中心命題に、
宗教教的な直観からくるヒラメキみたいな
エッセンスがあって⚡️

銀河鉄道の夜は賢治の死後に研究者によって
発表された作品だけど 
自身による校正がすごくて

子供向けに修正したからなのかな?
前期に書いた作品と、後期に書いた作品を
比べると、とても大事だなと思われる
クダリがスポンと抜け落ちているらしい

このしつこさや説教臭い部分にでてくるのが
ブルカニロ博士という、後半に出てきて
活躍する不思議な博士の部分で

博士のいうコトバの中にパウロとか聖書の
クダリがでてくるんだけど

そもそも銀河鉄道の夜の舞台設定が
ヨーロッパだからまあありかな?とも
おもうけど

賢治が大切にしてきて、病中も校正作業を
して枕元にまとめていた銀河鉄道の夜の
エッセンスの中に、キリスト的なモノも
含まれていたとも言えるかな?

そーゆー意味ではウィトゲンさんも
著作である論考の中には、
トルストイシステムを通したキリストの
エッセンスが含まれている気がするので
似ているなともおもった

ウィトゲンさんと賢治は見た感じは違う
けどタマシイが似た者であったと
ゆーことかな?


先生時代の収穫としては、
ウィトゲンさん的には、
論考を否定するよーな新しい思想の
言語ゲームの考え方を着想しているので
成果はあったとおもってたらしい

なので、先生を辞めた後も、論考について
修正する新たな理論について再び思索を
開始するコトとなるのだった


🟦31  教師をやめて迷走する

小学校を辞めたあと、
ウィーンに戻ったウィトゲンさんは、
とある女性から養ってもらいながら
やもめ暮らしをして思索に耽ってた時期が
あったみたい

この時に少女の木像を彫刻したり


姉の家を設計する建築図面を書いたりして
暮らしていた(遺産を受け取らなかった
ウィトゲンさんへの遺産分けの口実だった
みたいだけど)

設計した家がまた変わっていて
装飾を思いっきり省いた、
簡潔で明晰さを求めた論理的な家で

当時としては画期的で未だかつて無い
変わった設計のシロモノだった




この設計の仕事で、よーやく数年間食べて
いけるだけのお金が手に入った
ウィトゲンさんは、

その後に、ケンブリッジに研究員として
帰還する精神的な余裕も出てきたし

自身は哲学界に復帰する気はなかったけど

友人たちがウィトゲンさんをケンブリッジ
に戻して、哲学の道を歩むよーに画策を
してくれて

1928年に時計
ウィーンでの数学の講演に、無理やり
ウィトゲンさんを出席させると、

講演会の終了後に、
それまで封印していた感のあった哲学を
長時間にわたって講釈するという事態と
なり

これをきっかけにして、ウィトゲンさんは
小学校の先生時代にヒラメいた
言語ゲームの理論を極めるために、

ケンブリッジに戻って哲学を再開するコトに
なった(生前は完成しなかったけど)

ウィトゲンさんの生涯〜ケンブリッジの教授編

🟦32 再びケンブリッジへ

1929年、ふたたびケンブリッジ大学に
もどって哲学を再開したかった
ウィトゲンさんは

大学で研究員として働くためには
学位が必要だったけど
学位を持っていなかったので

まずは、学位を取得しなければ
ならなかった

なので、
主著の論考をケンブリッジ大学に提出した

その時の試験官は恩師であるラッセル先生と
旧知だったムーアの両巨頭で

この二人が論考とかについて型通りの質問を
するんだけど、ウィトゲンシュタインは
立ち上がって二人の肩を叩いて、

「そんなこと説明してあげても、
 あなたがたにはわかるわけはない」
と言ったらしいけど

この頃のラッセル先生も、
かつてウィトゲンさんを評価していたほど
の熱意は失ってたらしいけど

それにしてもスゲー言い草だなとおもった

この試験を当たり前にパスした
ウィトゲンさんは、
ケンブリッジで学位を取得して

「論理哲学論考」の考えを否定する
「哲学探究」(1953、死後出版)に結びつく
後期思想を展開することとなる

ケンブリッジ大学における講義を書き留めた
貴重な講義録は、
青色本と茶色本として、ウィトゲンさんの
死後に出版されたけど

論考から探究へと移行する思想の移り変わり
が見られる貴重な資料だというけど
読んでみたけど、

なんだかよくわからないんだよなあ

第一本人が出版を一時検討するも
価値がないからやめたと言ったりしてる
トコロもなんだろな?とゆー気もするし

🟦33 組織をふるい落とすかのよーにお世話になった大恩あるラッセル先生を排斥するよーなマネをする

ウィトゲンさんは、ケンブリッジで教授に
なったときに、

ラッセルを初め、自分と考え方の違う
研究者を周囲から排斥したらしい

ラッセル先生が第二次世界大戦中にアメリカ
で6年間に渡って研究した後に、1944年
にイギリスに帰国した際も、

ケンブリッジ大学から招聘があって復帰した
ラッセル先生を排斥する運動の先頭に立った
のが、
なんとウィトゲンさんであったとゆーのが
変人たるゆえんなんだろね

🟦34  自分の生きてきた軌跡
ふるい落とすかのよーに
晩年に、折角苦労して書いた自分の論考を
全部焼却するよーに命じたり

🟦35  人間関係をふるい
おとすかのよー
亡くなった兄弟や病気の姉には気を病むけど
自分の死に際は人と相いれず、
心配してくれる兄弟まで遠ざけたり

どんな場所でも、環境でも、修行僧みたいに
真善美といった理想形を追い求める
ウィトゲンシュタインさんの生涯は

どこを切り取っても小説になるよーな
普通のヒトとは思いっきり変わった
生き様を歩んだのだ

🟦36  最後のウィトゲンさん

1951年におしくも62歳で癌で
亡くなったウィトゲンさんは

死に際ガンだと知っても無理に
生き続けたいと思わなかったし

親族を遠ざけて、静かに息を引きとる際に
残した言葉も

「わたしはスバライ生涯をおくった」

といったなど

自分からいろんなものをふるい落とすよーに
して、常に中庸にいて、真実を見極めよーと
する生き方とか

どんな立場や生き方や環境においても
タマシイの修行でもしてるかのよーな
真正面からガチンコ勝負する生き方とか

まあスゲー奇人変人ではあるけど

尊敬できるし、まるで修行僧のよーで

興味のもてる天才なのだダルマ

 ⬛️    🟩 🟧 🟦 🟥 🟨 


とまあ、かなり長くなっちゃったので、

次回、論理哲学論考について

テキトーな感じで紹介していきたいなと

おもいますので


よろしければ読んでみてください🙏


くだらないハナシに長々とお付き合い

くださいましてありがとうございます🙏


ご縁⭕️に感謝いたします🙏


それではまた!👋