「手水舎(てみずや)」とは | Just One of Those Things

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「手水舎」とは、手を洗い、口の中を漱いで、心身を浄化させる施設です。


参道を進み、本殿を囲む瑞垣を入ると、まもなく手水舎とよばれる設備があります。これは神前に出る前に心身を浄化し整えるために設置された浄化用設備です。この手水舎には清水があふれており、柄杓が置かれています。


古来において、日本人は近くの小川や滝、海などで心身を浄化し清めてから神社へ参拝しました。日本神道において、古い時代にそうであったように、今でもその作法を行っている系もありますが、この手水舎が置かれてからは、清水や小川で手を洗い口を漱いでから参拝しています。(これが神社参拝時の本来の作法の1つです)


また、神職は、神前に向かう前に、小川や滝や海なので清めるとかに、潔斎所などで沐浴して心身を清めています。特に大きな祭りの前には沐浴だけではなく一定期間に斎戒を行います。この期間は斎火で調理した目のだけを食指、心身を清め整える作法があります。これを別火生活ともいいます。


また、神社の立地条件において、たとえば、熊野本宮大社などは、かつてはなかずに所在していましたが、そこには、その所在するところに至る橋はなく、参拝者は歩いて浅瀬を渡りました。その過程を通っていくことでm自然に禊がなされていました。


一般参拝者が「手水を使う」のは、こうした正式な禊を簡略したものにあたります。しかし、略式とはいえ、(神前に入る前の心身の浄化する意義という)意図を理解して行えば、心身を清めることには変わりありません。手水舎の目的は見も心も清浄化させ清めるところにあります。


「禊」と「祓」は本来は別の言葉で機能も異なっていましたが、古くから禊祓と混同するようになりました。また、「祓い」と「祓え」にも違いが有り、前者は自身で払うこと、後者は誰かに祓ってもらうことを言います。



禊祓が神話に始めて登場するのは、黄泉の国からもとった伊耶那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で行った禊です。この禊により神々が生まれまりたが、そもそも、伊耶那岐命が禊をしたのは、黄泉国の死の穢れを祓うためのものでした。


穢れとは「気枯れ」(次に説明するこの例えは、あくまでも一例の考え方の1つとして、理学系の説明をします。気といえば、人体ではイオンチャネルが気というものに相当します。人体では、このイオンチャネルの流れあって栄養素の取り込みができ、体細胞は生きます。人体では体内で引き起こる細胞枯れ、体に発生する垢や頭髪が抜ける現象=放っておくと老化現象の促進、ないし新陳代謝の低下を引き起こす物理現象=つまり体調不調や老化・疾患を引き起こす現象とも言える)といった身体の清浄化。ないし、心身の現象においては、自己の煩悩や欲望など(退化現象を示す因子となる)利己的本能=汚れも意味し、これらを除く日本神道的な行法が「禊」や「祓」となります。


日本神道では、穢れをもっとも忌むべきものとして嫌います。それゆえに禊行は最も重要な儀礼となります。


神社参拝や神祀りの目的も、突き詰めれば、個人本人には気づきにくいであろう心身に付着している罪や穢れを除去して、禊祓を行うことによって、幸福を願うことにあるといっても過言ではないでしょう。