神社神道と仏教の違い | Just One of Those Things

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Let's call the whole thing off

日本宗教思想の考え方でよく混同されるのが、神社神道と仏教の違いです。これは、時代の流れによって、豪族たちのそれまでの振興があったことや遣隋使や遣唐使などから受けた影響を受けていく中、黒船といったキリシタンの布教など、さまざまな影響を受けてきたことに始まりますが、それまではさまざまな宗教が混在していた状態でした。


伝来においては、それ以前に、日本列島においては、かつて渡来人であった豪族たちが説いていった「神」(但し八幡神信仰だけは東大寺の大仏の建設に手伝ったことから神仏習合の理で流れている)や山岳宗教や修験道で考えられていた「神仏習合の理」という思想が存在しており、神や仏に対する思想がそれぞれ違うため、よけいに物事の成り立ちの考え方を整理することを難しくしていました。


これを徳川家康の時代でさまざまな宗教のうち天海が整理したことから、現在の流れに至っています。


実質は、神社神道のうちでもさまざまあり、山岳宗教と修験道ともさまざまなあり、それぞれ違います。仏教においても、日蓮系や浄土系(西・東)・禅宗系などがあり、それとは別に伝来された日本密教や日本古来にあった雑蜜というものもあり、それぞれ思想や概念、方法が違います。


とくに、難しいところは、日本神道においては心身の浄化で「禊祓いをする」スタンスで供物が神に捧げるというものに対し、仏教や実線仏道では自ら(仏や実線仏道者、ないし祈願主)が救済のために供物をし、苦しんでいる者を供養しながら「仏法を唱えて導く」といったものとなります。日本密教については、禅宗や雑蜜や修験道よりその上を行き、通常では救済できないものを救済するために発したもので(不治の病などがある場合や救われないものを救うために発生した宗教ないし修法)、高い知識と技術力やノウハウを必要とします(このため誰でも出来るものではない宗派に属します)。


これらを大別して、神社神道と仏教と2つに分け、所在を示す地図記号においては、「神社の鳥居記号」と「寺院の卍記号で大別されています。


鳥居の起源については、さまざまな説があります。常世の長鳴鳥が鳴いて暁を告げた神話に由来するとも、聖域と俗界とを区分するとも言われています。一方、卍は広くインドで瑞兆の印として用いられてきたものといわれます。


このように、地図記号からも両者は異なっています(「神仏習合の理」型の神社も実際に鳥居が設備されており鳥居記号になります)。日本神道は日本古来の民族宗教にあたり、仏教は世界宗教に相当し(一例:シルクロード、ないし、遣隋使・遣唐使)、根本的に性格を異にしています。


神道という言葉が最初に見られる確かな文献は、奈良時代に成立した『日本書紀』で、用明天皇の条で、天皇は「仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」とあります。つまり、神道と仏法は違う性質のものと理解したという意味合いで、神道と仏法(仏教)とが対置され記されています。(仏法に近付けよう、理解に努力したのが聖徳太子でこれも文献として残っています。)


民族宗教である神社神道の特色は、自然発生的に成立した宗教であること(その起源は、靖国神社でも明治神宮でもありません。また伊勢神宮でもありません。)、「神社の起源と神社という言語の由来 」でとりあげたように、教祖が存在しないこと、世界宗教に見られるような経典や教義が無いこと。祭祀・儀礼が重視されていること(仏教では「仏法の導き」を行うことによって仏法に帰依させることや「法事」が重要視される)、共同体の利益が優先させること(仏教では「お布施」が優先されます)などが挙げられます。


神社神道においては、「氏神と氏子の関係」と「産土神と鎮守の神」  ・ 「氏子札(うじこふだ)」  ・ 「神社のしくみ」と「人間社会の構造」  で示してきたように、神社の周囲に暮らす人々は氏子とよばれ、地縁的、或いは、血縁的な絆を背景に成立しています。


一方、仏教は(シルクロードなどを経て)世界宗教であるとともに普遍宗教ともよばれ、民族の絆を超えて、世界あまねく広がっているのが特徴です。仏教を簡単に定義すれば、ブッダの教えに象徴され、膨大な教えを(ブッダが入滅後、弟子たちが集録)経典と仰いで、信仰(あるいは尊行)されています。