私が学生のころは、
地方都市でも数軒の古書店は営業をしていました。
今ではほぼ見当たらず、
あってもBOOK OFFだけという、
淋しい時代になってしまいました。
関東限定の話題にはなりますが、
JR御茶ノ水駅から神田駿河台の坂道を下ると、
古書店街といわれる通りにたどり着きます。
今では小綺麗なビルに代わってしまったところが多いのですが、
それでも昔の面影の姿を残しています。
大学時代は、
休講やコマの空いている時間は
毎日のように俳諧をしていました。
古書店街は靖国通りの北側に多く広がっているので、
散策した場合、
スズラン通り入口に位置する
㉒(書泉ブックマート)を起点とし、
折り返し地点は①、
またはその先にある岩波書店が終点となる直線コースになります。
そのため、帰りは、
スズラン通りをぬけ
オルガン屋さんや古物商を覗きみしながら戻るのが常でした。
午後の授業があるときは
「いもや」や「キッチンカロリー」で 昼食をとりました。
昭和52年、中央大学が八王子へ移転をし、
お茶の水には
大学と名のれるのは、明治大学のみになりました。
日大がありましたが、
当時は差別用語になりますが、
「ポン大」(所謂アンポンタン)と呼ばれる立場でした。
現在の中央大の最寄り駅の
京王線多摩動物公園駅周辺には
雨後の竹の子のようにたくさんの大学が移転してきましたが、
古書店どころか
新刊本を扱う書店すら見当たりません。
50年前の私たちの情報を得るツールは、
テレビラジオを除けば、
新聞や雑誌等活字媒体が主流でしたので
多くの書店があり、共存できたのでしょう。
愚息が大学生だったころ、アパート先を何度か尋ねましたが、
授業のテキストと、少年ジャンプしかありませんでした。
非効率的でコスパが悪いのが本屋であると
どこかの大学の先生が逆説的に話していましたが、
寂しい限りです。
神田神保町の由来
江戸時代、現在の神田神保町一帯には多くの武家屋敷が建ち並んでいました。古地図を見ると、その様子が一目瞭然です。
神保町という名称も、元禄2年(1689)、旗本の神保長治が一帯に995坪もの屋敷地を賜ったことに由来します。
しかし、江戸時代は「神保町」とは呼ばれていませんでした。一帯は「小川町」と称されていました(現在でも小川町はあり、地下鉄小川町駅もあります)
ただ、古地図からは神保氏の屋敷地に面した通りが「表神保小路」と呼ばれていた様子がうかがえます。
江戸時代は江戸城に近い表神保小路がメインストリートでした。
現在のすずらん通りです。
一方、表神保小路の北を走る通りは裏神保小路と呼ばれました。
現在の靖国通りです。
いまでこそ神田神保町のメインストリートとして機能している靖国通りですが、江戸時代は裏道に過ぎなかったのです。
神保町が本の街となった理由
神保町が本の街となったのは、明治時代にまでさかのぼります。
明治以降、神田周辺には明治法律学校(現・明治大学)や
英吉利学校(現・中央大学)、日本法律学校(現・日本大学)などといった学校が数多く設立され、一帯は学生たちで賑わいを見せるようになりました。
そして安価で書籍を入手したいという学生たちのニーズに応える形で
古書店街が形成されるようになりました。
このとき、古書店の多くは通りの南側に店を構えました。
その理由は、日差しで本が日焼けしてしまうことを防ぐためです。