読書感想文:『大蔵官僚 超エリート集団の人脈と野望』 | 倉山塾東北支部ブログ

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神一行『大蔵官僚 超エリート集団の人脈と野望』(講談社文庫 1986年)読了。

 

塾長の『検証 財務省の近現代史』でも参考文献として挙げられており、大蔵官僚とはどんな人たちなのかを知るために読んだ。

 

読み進めるほどに興味深く、「これが官僚という生き物か」ということをまざまざと見せつけられた。

 

各章それぞれがとても興味深く、考えさせられる内容であったが、ここでは細部に立ち入らず、全体を通して感じたことを少しまとめてみる。

 

 

・「スペシャリスト」と「ジェネラリスト」ということ

 

本来の官僚の仕事をしているのはノンキャリアの人間、政治家の仕事をしているのがキャリアの高級官僚ということが言われる。

 

確かに一定以上の役職に就けば、政治との関係もあるのでより広範囲を見るということも必要になってくるだろうが、基本的には官僚というのは各分野のスペシャリストでなければならない。

 

そして、公僕であるという性質上、自らが物事を考えるのではなく、きちんと「手足」として働くというのが本来の姿であり、決して政治家のシンクタンク代わりをし、自分たちの意向を政治家にそのまま通させるなどということをしてはいけない。

 

全体を見て大局的に物事を判断する、つまりジェネラリストとしての役割は、国民から選出された政治家に求められるのである。

 

ところが、政治家はこれまで自らの職責を果たそうとしてこなかった。

 

どころか、政治家は自前のシンクタンクを持つことなく(つまり自分の頭で考えるということをせず)、官僚機構をシンクタンクの代わりとして使ってきた。

官僚から政策の説明を聞くことが、政策についての知見を深めることであると考え、行動してきたのだ。

 

確かに官僚から政策についての説明を聞くことは、最終的な判断を下すための方法の一つではあろう。

まして官僚はその道のスペシャリストである。政策について「官僚としての立場」からの説明を理路整然と行うことであろう。

 

しかし、それはあくまでも「官僚としての立場」からの説明であり、それが全てではないはずである。

 

…政治家は選挙で当選し、議席を維持することが目的と化し、本来の仕事をしなくなった。そして、その穴を埋めるために国家財政を司り予算編成権を持つ大蔵省の幹部が政治家の代わりをするようになってしまった。

 

だが、政治家は自前のブレーン、つまりシンクタンクを持たず、官僚をその代わりとして使ってきた。「その道の専門家なのだから、彼らの言うことに間違いはないだろう」と…。

 

だが、その結果何が起きたか。

 

大蔵官僚は非選出機関の人間であるにもかかわらず、実質的に国政を司り、国民の生活を左右するほどの権力を握るという状態が続くことになってしまった。

 

これでは、「自分たちは特権階級である」と勘違いしても致し方ない側面があるのは事実である。

 

「特権階級」と勘違いさせないために、現在の統治構造を変革していかなければならない。

それはつまり、政治家と官僚、政治と行政の正しい在り方とは何か、ということを今一度きちんと考え、それを目指していかなければならない、ということである。

 

 

そもそも「general」とは陸軍大将や空軍大将を指す単語でもある(ちなみに海軍大将は「admiral」)。

 

陸軍大将は、陸軍の最高の階級である。

ということは、軍全体を統帥する立場の人間である。

 

これを国家に置き換えれば、国家全体のことを大局的に判断するべき立場の人間というのは、全国民から選出された政治家である。

 

官僚の仕事はあくまでも、国家のことを大局的に考える「ジェネラリスト」としての政治家の下した決定に従い、法律の枠内でできることを「ジェネラル」を支える「スペシャリスト」として最善を尽くすものであろう。

 

それが、官僚の「分際」というものである。

 

その関係性が歪んでいるのならば、歪みの元を直し、正しく機能できるようにしなければならない。

 

人間の身体と同じである。

 

「ジェネラリスト」は頭、「スペシャリスト」は四肢である。

 

四肢が頭を無視して勝手気儘に動くというのは、決して正常とは言えない。

 

それぞれが本来の役割を果たしてこそ生きることができるのであって、どちらかが機能不全になると生きることはできない。

 

機能不全の原因を突き止め、対症療法ではなく根本的な治療をしなければならない時なのである。

 

 

 

・出世に生きるはくたびれる―官僚が本来の職務を全うできるようにするには

 

「金に生きるは下品に過ぎる 恋に生きるは切なすぎ 出世に生きるはくたびれる
とかくこの世は一天地六 命ぎりぎり勝負を賭ける
仕事はよろず引き受けましょう 大小遠近男女は問わず 委細面談仕事屋稼業」

 

『必殺必中仕事屋稼業』という時代劇のオープニングナレーションである。本書を読んで、このナレーションの最初の一節「出世に生きるはくたびれる」というのがつくづく身に染みた。

 

勿論大方のキャリアの大蔵官僚は事務次官の椅子を目指しており、出世に生きることが半ば人生の目標と化している側面があるので「出世に生きるはくたびれる」などということはないのだろうと思うが、私にはそんな生き方はできない。

 

さぞや精神的に疲れることだろう。

 

そこまで自分を追い込み、人間性を捨ててまで次官になった先に何があるのか。

栄達の果てに何を望むのか。

 

それで幸せというならば、最早価値観が違うので議論は平行線を辿ってしまうので、「官僚とはそういう生き物である」というしかなくなるが、何とも寂しい一生である。

 

妻子と共に過ごすこともままならず、我が子と満足に遊んでやることもできない日々の連続。

自分も辛いが、子供がどれだけ寂しい思いをしていることか…。

 

それと同時に、過労のあまりノイローゼになったり、自殺してしまうということも問題だ。とりわけ大蔵官僚の自殺率は他の公務員よりも高い。

 

あたら優秀な人材が、出世などというもののために無用な犠牲になってしまうというのは、それこそ国家の利益を毀損していることになりはしないか。

 

「出世したい」という気持ち自体を否定するつもりは毛頭ないし、「使われるより使いたい」と思うのも、人間ならば特に不自然なものではない。

 

しかし、「何のために」出世をするのか。

 

公僕となる道を選んだからには、天下国家のための尽くすのが官僚の本分である。

 

それがいつの間にやら「天下国家=大蔵省(財務省)」になってはいないだろうか。

 

官僚の仕事、政治家の仕事を今一度きちんと考え、それぞれの役割を全うできるような仕組みに変えていかなければならない時が来ている。

 

少なくとも、既存の枠組みでは最早日本国を強く賢い国にし、国際社会で生き残っていけるようにしていくことはできない。

 

 

 

最後に。

 

 

「大蔵官僚を中核とする日本のエスタブリッシュメントは、自らの国家利益を享受することに慢心しているうちに、国家の礎である国民のエネルギーを殺しているのである。(中略)大蔵官僚はみずからの野望のために、国家そのものを崩壊させる道を歩んでいるのである。」(p289)

 

 

まずは国民が、政治に無関心で居続けると一部の官僚に国政を壟断され、国家が滅亡しかねないということに気づき、優秀な官僚を使いこなせる政治家を国会に送り出す、ということを意識しなければならない。

 

大蔵官僚というのは、いわば「諸刃の剣」である。しかも、破壊力抜群でかなりの重量がある。

 

この剣を自在に使いこなすには、扱う人間が絶えず鍛錬を重ね続けなければならない。

 

剣豪が日々剣術の稽古を欠かさないのと同じである。

 

稽古もしない怠け者が天下の名剣を扱えようはずがなく、かえって剣に振り回され、あるいは怪我をするのは自明ではなかろうか。

 

 

大蔵省(財務省)は、優秀な人材の集まりである。これを使いこなすために政治家はどうあるべきで、何をしなければならないか、よく考えなければならない。

 

また、我々も「ジェネラリスト」として全体を俯瞰でき、大局的に判断できる政治家を育てていき、また官僚が「スペシャリスト」として自らの本分を自覚し、彼らが本来の職務を全うできる環境を整えるということが必要なのではないだろうか。

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