AJからだった。
「くら子、おれ田舎に帰ることにしたわ」
AJは大学時代の先輩だ。
これまでずっと倉庫を改装したアトリエ兼住居でペインティングを続けてきた。
実家のそばに親戚の持っている空き家があり、管理も兼ねて住まないかという話が今年になって舞い込んできたという。生活費がかかる東京よりもそちらに住むほうが賢明と判断したとのことだった。
「絵なんてどこででも描けるからさ。東京にいなきゃならない理由なんてないもんな。」
その晩、久々にふたりで食事をした。これが最後の晩餐かもしれないなと思うと、帰り際に後ろ髪を引かれる感じがした。
AJと会う前の日、街で偶然昔つきあっていた人とすれ違った。彼はわたしに気づくことなく、携帯の画面をまっすぐに見ていた。わたしは声を掛けなかった。
彼とAJは親友だった。
昔は3人でよくツルんだものだった。AJの絵のような、くすんだグリーンと灰色の空の日々。ドライでざらついた空気、ふわふわと捉えどころのない不安定な地面。too soft to walk on. AJの絵のタイトルだ。わたしたちは好んでジャームッシュの映画を観、アディダスのハイカットで柔らかすぎる地面をなんとか踏みしめ歩こうとしていた。
あれから3年が経った。別れた彼も以前は絵を描いていたが、いまはきっぱりとやめ、この春に結婚して普通に暮らしているという。わたしもアディダスは履かなくなった。変わらないものなんてないのだ。
彼の描いた小さな絵が、一枚だけ今もわたしの元にある。なんとなく捨てられなくて荷物の奥の方に押し込めていたのだけれど、わたしが東京を離れるとき、その絵もわたしの手元を離れるだろう。
AJが東京を離れるときには、彼の絵とわたしの写真とを交換してもらおうと思う。その絵がわたしの元を離れる日もきっと訪れるのだろうけど。

AJは、今もまだアディダスを履いている。
