1970年11月25日、三島は盾の会の学生たちとともに陸上自衛隊市谷駐屯地の東部方面総監室に立てこもり、バルコニーから自衛官に向けて演説した後盾の会メンバーの森田必勝とともに割腹自死した。その日の朝、三島は当時雑誌に連載していた小説の最終回の原稿を脱稿していた。
その作品は『豊饒の海』。4部構成のこの小説では主人公が早世と転生を繰り返す。私にとってこの作品で印象的なのは第二部の『奔馬』である。第二部の主人公・飯沼勲は右翼青年。政財界の腐敗に憤った彼は仲間を募って革命を試みるが失敗する。次に彼は財界要人の中でも特に日本を腐敗させると信じた人物を暗殺して割腹自死した。彼が自ら命を絶ったのは皇嗣(天皇の後継ぎ。ここでは現在の上皇を指す)誕生の日から日付が変わってすぐのことだった。
三島の事件は彼が自分をこの青年と重ね合わせて起こしたように思える。
三島と日本文学者としても友としても向き合ったドナルド=キーンは、三島の自死について
「彼は老人になりたくなかったのだと思う。」
と語っている。
確かに、この小説全編にわたって登場する本多繁邦の描写をみているとキーンの指摘はもっともだと思う。
第一部『春の雪』での本多は主人公・松枝清顕のよき友だった。
だが、第三部『暁の寺』で60歳代の本多はヒロインであるタイの王女・ジン・ジャンに対してスケベ心を示し、第四部『天人五衰』で80近くの本多は覗き事件を起こしてしまう。
この本多に関する描写をみると、三島が老いに対して否定的な受け止め方をしていた、と思えてならない。
さて、三島が死して50年。日本も大きく変わった。
「令和」の今、多くの日本国民は自衛隊の存在を認めている。しかしその自衛隊は三島が理想とした自主防衛のための軍ではなく、アメリカ合衆国の傭兵へと変貌しつつある。
「日本の国を愛せ。」
という声が年を追って高まってきた。だが、愛国を叫ぶ多くの者たちはこの国で先人たちが培った文化に敬意を持つことなく、ただ近隣の国の人々やマイノリティーを貶めることでその「愛国心」を満たしている。
彼らは三島由紀夫の亜流にも値しない。
さて、こちらは東京新宿にあるどん底という居酒屋である。この店のカウンター席で三島は様々な思想の若者と熱く語り合ったという。三島は酒が飲めず、この店ではオレンジジュースを飲んでいたというが、これは三島の憎めないエピソードだと私は思う。