三島由紀夫 | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 三島由紀夫をどう思うかと誰かに聞かれたら、人としては嫌いだ、と私は答えるだろう。
 けばけばしい軍服もどきの制服を着、屈強の青年たちを従えて軍隊ごっこをした彼は嫌いだ。
 彼をさらに嫌いにさせるエピソードもある。
 作家・阿部譲二は三島を慕い、彼と付き合っていた時期があった。ある時、三島が阿部にボクシングジムを紹介してほしいと依頼したので阿部は知り合いの経営するジムを紹介した。ところが、三島がボクシングを始めた理由が強くなりたいからではなくて自分の肉体をかっこよくしたかったからだ、と知って阿部は三島と絶交したという。
 三島が松の木はどんな木か知らなかった、というエピソードがある。能舞台の背景のところには大きな松の木が描かれている。三島は能楽の愛好者であり、能楽を翻案した戯曲を何本も書いている。能舞台に見慣れたはずに彼がなぜ松の木を知らないのか?
 
 私は三島由紀夫が嫌いだ。しかし彼の遺した小説は面白いと思う。
 
 彼の作品で初めて読んだのは『仮面の告白』だ。この小説の主人公「私」は三島自身だ。その「私」が自分は同性愛者だと告白する。思春期に入りかけの「私」は病気で学校を休み一人で家にいるときに父親が持っている画集を開き、聖セバスティアヌスの殉教をテーマにした画をみた。聖セバスティアヌスは美男として知られているそうだが、画ではその彼が裸体で杭に縛られていて、脇に矢を受けている。その姿をみて「私」は性的に興奮し、初めて自慰をしたという。そのあとの「私」の情けない心情の描写を読んでいて、今このブログを書いている私は異性愛者であるにかかわらず小説の「私」が他人には思えなくなった。
 三島由紀夫、本名・平岡公威は1945年、東京帝大在学中に軍に召集されたのだが、健康診断で肺浸潤と診断され、即日除隊となっている。これは誤診だったのだが、内心ほっとした、と三島はこの小説の中で告白している。
 なお、私がこの作品を呼んだのは30歳になってからだが、作品の存在を知ったのは高校の現代国語の授業でだった。どういう脈絡か忘れたが、「自虐」と言う言葉が出てきたとき、ドストエフスキーの『地下室の手記』とともに先生が紹介してくれたのが『仮面の告白』だった。その先生は天皇だとか右翼だとかに嫌悪を感じる人だったが、三島の小説は面白い、と思っていたのだろう。
 

 

 1970年11月25日、三島は盾の会の学生たちとともに陸上自衛隊市谷駐屯地の東部方面総監室に立てこもり、バルコニーから自衛官に向けて演説した後盾の会メンバーの森田必勝とともに割腹自死した。その日の朝、三島は当時雑誌に連載していた小説の最終回の原稿を脱稿していた。

 その作品は『豊饒の海』。4部構成のこの小説では主人公が早世と転生を繰り返す。私にとってこの作品で印象的なのは第二部の『奔馬』である。第二部の主人公・飯沼勲は右翼青年。政財界の腐敗に憤った彼は仲間を募って革命を試みるが失敗する。次に彼は財界要人の中でも特に日本を腐敗させると信じた人物を暗殺して割腹自死した。彼が自ら命を絶ったのは皇嗣(天皇の後継ぎ。ここでは現在の上皇を指す)誕生の日から日付が変わってすぐのことだった。

 三島の事件は彼が自分をこの青年と重ね合わせて起こしたように思える。

 

 三島と日本文学者としても友としても向き合ったドナルド=キーンは、三島の自死について

「彼は老人になりたくなかったのだと思う。」

と語っている。

 

 確かに、この小説全編にわたって登場する本多繁邦の描写をみているとキーンの指摘はもっともだと思う。

 

 第一部『春の雪』での本多は主人公・松枝清顕のよき友だった。

 だが、第三部『暁の寺』で60歳代の本多はヒロインであるタイの王女・ジン・ジャンに対してスケベ心を示し、第四部『天人五衰』で80近くの本多は覗き事件を起こしてしまう。

 この本多に関する描写をみると、三島が老いに対して否定的な受け止め方をしていた、と思えてならない。

 

 さて、三島が死して50年。日本も大きく変わった。

 「令和」の今、多くの日本国民は自衛隊の存在を認めている。しかしその自衛隊は三島が理想とした自主防衛のための軍ではなく、アメリカ合衆国の傭兵へと変貌しつつある。

 「日本の国を愛せ。」

という声が年を追って高まってきた。だが、愛国を叫ぶ多くの者たちはこの国で先人たちが培った文化に敬意を持つことなく、ただ近隣の国の人々やマイノリティーを貶めることでその「愛国心」を満たしている。

 彼らは三島由紀夫の亜流にも値しない。

 


 

 

 さて、こちらは東京新宿にあるどん底という居酒屋である。この店のカウンター席で三島は様々な思想の若者と熱く語り合ったという。三島は酒が飲めず、この店ではオレンジジュースを飲んでいたというが、これは三島の憎めないエピソードだと私は思う。