女学生と軍用機 | Kura-Kura Pagong

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"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 私は東京都立武蔵高等学校を卒業した。武蔵高校といっても東大に多数合格者を出している武蔵高校とは違う。あちらは旧制高等学校を前身とする私立男子校。私が出たのは公立共学の方の武蔵高校だ。私が出た武蔵高校の前身は旧制高等女学校で、敗戦時の名称は東京都立武蔵高等女学校といった。

 戦時中、学生たちは軍需工場へ動員された。これを学徒動員とか勤労奉仕とかいうが、そのため戦時中の学生はほとんど勉強はできなかったという。そして私の先輩たちも中島飛行機武蔵製作所で軍用飛行機のエンジン製作にたずさわった。

 下の写真がその武蔵製作所跡地である。現在の東京都武蔵野市内にあった工場跡地の一部は都立武蔵野中央公園となり、他の跡地にはUにR住宅などが建っている。

 

 

 私が学校の先輩たちの勤労奉仕について知ったのは卒業してだいぶたってからである。敗戦から28年経った1973年に発刊された卒業生の手記集を30歳の頃の私は読む機会に恵まれた。

 読んでいて印象に残ったのはひもじい話である。

 工場は武蔵高女(高等女学校)から数km離れた場所にあったが、生徒たちは工場近くの寮から工場に通った。

 ある卒業生はこう書いている。

「寮の食堂でカレーライスが出たことがあって、具に肉が入っていたので久しぶりに肉を食べれたと友達と喜びました。何日かして寮の厨房にカラスの死骸がたくさん積んであるのをみて、私たちが何の肉を食べたのかわかりました。」

「寮の近所の農家の柿の木のそばに一人の少女が立っているのをみたことがあります。顔はわかりませんでしたが同じ学校の生徒だと思います。後日その農家から先生に、生徒に柿の実を盗らせるな、と苦情があったと聞きます。」

 8歳で敗戦を迎えた父からもあの時代のひもじい話はよく聞かされたが、乙女たちもやはりひもじかったのだ。

 こんな手記もあった。

「今の日本は平和ですが、国民が同じ目標に向かってまとまることがないのはいけないと思います。」

 戦争を経験して思うことは人それぞれだと思うが、戦後70余年を過ぎた今はこういう声が高く響いているような気がする。

 

 ところで、この武蔵製作所は1944年11月24日に空襲を受けた。日米開戦時には日本の勢力下にあったマリアナ海域を米軍が奪い、そこのサイパン島に爆撃機の出撃拠点を米軍が設けて最初に攻撃したのがこの軍需工場だった。この空襲では200名が亡くなったという。そして敗戦までの間に工場への空襲はあと3回行われた。

 学徒動員された乙女たちそれまで工具の使い方を知らなかったにわか職人である。そんな彼女たちがつくったエンジンの品質はいかばかりだっただろうか。

 また、彼女たちは工具の使い方だけでなく工場での事故をいかに防ぐかということもろくに教えてもらうことなく製造ラインに立たされたわけだ。そんな彼女たちが作業中の事故に事故に遭い、深刻な怪我を負うこともあったのではないか。

 私が読んだ手記集では、そういった空襲や事故の凄惨な話は書かれていなかった。それは彼女たちがあえてそういうことを書かなかったのか、それとも書いた卒業生もいたがそういう手記は私の読んだページにはなかったのか、もう一度手記集を手にしなければ分からない。

 

 

 ところで、この武蔵製作所には物資運搬のための鉄道が通っていた。もともと国鉄中央本線武蔵境駅から境浄水場(現在も操業)まで鉄道がひかれていたのがが、それを武蔵製作所まで延長して列車を運行していたのだ。この専用鉄道は昭和20年代に撤去されたが、廃線跡の多くの区間は遊歩道に転用されているので簡単にその廃線跡をたどることが出来る。

 そこで、私は2020年11月23日、そこを歩いてみた。

 

 

 しばらく歩くと遊具の設置された公園があった。ここは関前高射砲陣地といって工場を狙う爆撃機を撃ち落とすための高射砲が設置されていた場所である。しかしやってきたB29爆撃機は高度3万フィートという、高射砲の射程のはるか上を飛んできて容赦なく爆弾を落とていった。

 

  高射砲陣地跡をすぎてまた歩くと、遊歩道は終わり幹線道路にでる。右手に境浄水場を眺めながら歩道を歩くと玉川上水にでた。玉川上水にはぎんなんばしという歩行者自転車専用橋が渡されていた。かたわらにある案内板によると、この橋は鉄道橋の橋台を利用してつくられたというのだが、これは軍需工場専用線の橋ではない。

 1945年7月、敗戦の約1月前の最後の空襲により中島飛行機武蔵製作所は壊滅的な被害を受けた。そしてその用地は戦後米軍に接収され、跡地には米軍住宅などの施設が建てられた。米軍はこの地をグリーンパークと呼んだ。日本社会が落ち着きだしたころ、プロ野球の国鉄スワローズ(東京ヤクルトスワローズの前身)が設立されたが、その試合が米軍から返還された工場跡地内に建設された野球場で行われることになった。 

 そこで国鉄は武蔵境駅起点だった飛行機工場専用線を隣の三鷹駅起点にルート変更し、武蔵野競技場線として整備したのだが、いろいろと問題があったようでスワローズ主催の試合が武蔵野競技場で行われたのは1951年のシーズン限りだった。

 翌年神宮球場が米軍から返還されるとそこがスワローズの本拠地となり、武蔵野競技場も、国鉄武蔵野競技場も撤去となった。その後、米軍住宅の用地も返還され、そこに新たに公団住宅や公園がつくられて現在に至る。

 そういえば、私が武蔵高校にいたころ、鉄道研究部が文化祭の時制作した冊子の国鉄武蔵野競技場線のことが書いてあったっけ。

 

 

 このぎんなんばしから玉川上水に沿って西へ少し歩くと、また遊歩道にでる。これがかつて境浄水場に向けてつくられた線路の跡だ。今ここに立っている木は鉄道の撤去後に植えらえたものだと思うが、それでもかつて国木田独歩の随筆にも描かれた自由存する山林の雰囲気を今に伝えてくれる。

 そうこうしているうちに武蔵境駅に着いた。この駅は21世紀に入り高架化され、高等女学校の時代は勿論、私の高校時代からも大きく風景が変わった。

ただし、友と一緒にラーメンを食べた東大楼は当時から少し離れた場所で今も営業している。